最終講義の中のコンステレーションの事例

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「先生は易を信じられますか?」

因果論的なものの見方は科学技術をはじめとして、現代の社会を物質的に物凄く豊かで快適なものにしてくれて、僕らはその恩恵を受けているわけですね。けれども、自分の生き方や人の生き方を考えたりするときにも、その見方に頼りすぎると間違いを起こすのではないか。なぜなら、因果論的なものの見方は「私」との関係を問わないことで成り立つのに対して、僕らが生きていくことは「私」との関係こそが鍵になっていくのだから。

当時テレビで最終講義を見た僕は「私」との関係を入れ込んだ「コンステレーション」という考え方に物凄く興味をもちました。最終講義の中で河合隼雄先生はコンステレーションの事例として、二十年以上前に「先生は易を信じられますか」といって訪ねてこられた一人の学生さんのことを書かれています。(たとえ本でも河合先生の語りは物凄く面白いので、ぜひ実際に本に触れていただくのがいいと思います。)

一人の学生さんが切羽詰まった様子で会いに来られます。そして部屋に入るなり、立ったまま「先生は易を信じられますか」と。すると先生は例によって、「易についてですか・・・」とかいって話を聞かれたわけですね。きっと、すーっと相手の学生さんの世界に同調されたんでしょうね。

 

いきなりですが、物凄く脱線しますが、許してください(笑)。フラワーエッセンスの植物観察はゲーテの対象的思考っていうのをベースにしています。対象的思考って、言葉は難しいですが、要するに自分の世界を出て対象(植物)が自ら語る言葉に耳を傾けるってやつです。対象を自分の理解の枠にはめ込もうとするのではなくて、自分の意見や価値観を脇においてひたすら対象に耳を傾けること。

トチノキの冬芽

植物観察をすればするほど、僕は人の話を聞くというのは同じようなことだなと思います。えーっと、それで話を元に戻して「先生は易を信じられますか」と言われたときに、「易についてですか・・・」とかいって話を聞かれたわけですね。自分の世界を出てすーっと相手の学生さんの世界に耳を澄まされたんでしょうね。

自分は在日韓国人で一度祖国へ帰りたいと思っていた。幸運にも試験か何かにパスして帰れることになられたようで非常に喜んで浮き浮きされていた。ところがこれまでそんなことはしたことがないのに、高島易断の本を開いて自分のところを見ると、「高みに上がって落ちる」と書いてあった。これは絶対に祖国に帰るときの飛行機が落ちるに違いないと思い物凄く怖くなった。けれども一方でどうしても祖国に帰りたい。思いつめたあげく、数学もやられて、心理学もやられて、西洋にも行かれて、東洋にも詳しい先生に、易を信じるかどうか聞きにきましたというわけです。

先生は「易についてですか・・・」とか言いながら、その学生さんの言われることを一生懸命に聞かれる。聞きながら、易ということを契機に、これほどの不安を起こすということは、何がコンステレートしているのかと考える。何がコンステレートしていますかとは絶対いわないで、ただ一生懸命話を聞かれる。

そうすると、戦争中に在日韓国人であるために、日本の人たちにどれほどいじめられたかとか、どんなにつらい思いをしたかとか。だから一度祖国に帰りたい。その思いで試験を受けてパスした。昔の親戚やいろいろなところへ行きたい。

けれども、そういう話をしているうちに、だんだん現実的なことにも気がつかれてきて、もし親戚のところに自分が行ったら、韓国の人はお客さんを物凄く歓待するので、その分親戚は物凄く困るかもしれない。当時はご飯をたくさん食べること自体大変という時代でしたから。

そのような話をされるうちに、手放しで喜んで親戚のところに行けるわけではないことに気づかれたそうです。また祖国への強い思いがありましたから、韓国の歴史はすごいと思っていたけれども、南北の戦争もあったから自分の思いと違うところもあるかもしれないという話もされるようになったそうです。

二日に一度くらい話に来られるようになって、いろいろ話されているうちに、親戚へは長居しないこととか、見に行くつもりだったところを取りやめることなど具体的に話され、4回目くらいには、元気になったので行ってきますと言われたそうです。

一生懸命に学生さんの話しを聞きながら、何がコンステレートしているかを考え続けてこられた先生は「易はどうなっていますか」と尋ねられる。そんなことで来たんでしたと学生さんが言われる。

「考えてごらんなさい。すごくおもしろいと思いませんか、高みに上がるものは落ちるというイメージはすごいじゃないですか」と言ったら、はっと気がつかれました。つまり、我が祖国というものをものすごく高く見て、日本でつらかった分だけそこまで思って、おそらく行かれたらいろいろ大変なことが起こったんじゃないでしょうか。自分の思いと全然違う祖国が見えたり、あるいは親戚へ行って自分は喜んでいるのに、親戚の人は非常に困り者が来たと思われるかもしらんですね。

ところがそれを非常に現実に足のついた話にして行かれたわけですね。だから、そこにコンステレートしていたことは、まさに高みにのぼるものは落ちる、だから足を踏みしめて自分の国へ帰るということだったのではないか、というふうに思います。

偶然ではあるけれども、その偶然が意味をもって重なるコンステレーション。「高みにのぼるものは落ちる」を単純に飛行機が落ちるといった外的な現象に結びつけるとコンステレーションを読み解くことに失敗してしまいます。コンステレーションを読むには自分の内面で何がおこっているかに丹念に向き合うのがいいですね。それにしても、こんな展開が見事に起こってしまうのが河合隼雄先生ならではですね。

 

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