フラワーエッセンスと、ネガティブと、ドラゴンについて-3

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「私」の体系の現実とドングリの現実は違う

前の記事で、どうして「私」の体系、なんてことをわざわざ持ち出したかというと、ドングリ(たましい)と「私」(自我)とドラゴン(影)の関係を、なんとかフツーの言葉で表現できないかということを試してみたわけです(^^;

これを説明するのがむずかしい理由は、ドングリ(たましい)が「私」と同じ次元にあるのではなくて、「私」を超える存在だからだと思います。つまり、僕らはそもそも、ドングリとはこれこれこういうものですと、因果関係で論理的に説明することができない。ドングリは自我の言葉で言い尽くすことができないものだと思います。

それを表現するには、どうしてもドングリの言葉、つまり神話や物語や芸術といった、たましいの言語の方が都合がいい。フラワーエッセンスを自分の中のドングリとつながるために使いたいときに、僕らがまず意識しておきたいことは、「私」の体系の現実とドングリの現実は違うということです。

(その意味で僕は、病気はすべてたましいと心(自我)の葛藤が原因だと、因果関係で直線的に結んでしまうバッチ医師の考えのその部分には反対の立場です。)

だから、いかに「私」の体系の現実と、ドングリの現実に折り合いをつけるか、というか、いかにつながりをつけるか、いかに協力体制をつくるかということがとても大事なことだと思います。

 

誰かに教わった答えが役に立たないとき、ドングリは真価を発揮する

ドングリは生まれた木から何千キロも離れたところに運ばれ、誰に教えてもらわなくても、完璧なオークの木になるすべを知っている。(Dr. Edward Bach)*1

バッチ医師が言うように、ドングリはすべてを知っているわけです。だからドングリに地図は必要ない。けれども、僕らは地図がほしい。

その地図は外側の誰かが知っているわけではなくて、ドングリとつながることで、ドングリの言葉に耳を澄ますことでしか知ることができないものだと思います。(セラトー的なテーマですね。)

逆に言うと、誰かが教えてくれる答でなんとかなっているうちは、自分の中のドングリが本当の力を発揮していないけれども、既成の答えが役に立たないとき、僕らの中のドングリは真の力を発揮します。

自分の内側の世界に沈潜しようといっているわけでは全然なくて、ドングリは僕らの内側にも外側にも表現されるので、それがどのように表現されているか(コンステレーションが起こってくるか)に耳を澄ましながら、内側でのつながりと外側での活動を一致させていこうということです。

 

その意味でフラワーエッセンスはものすごくいいと思うんです。ドングリの言葉に耳を澄まして、ドングリと協力体制をとるときの助けとしてものすごくいいと思います。

もし、フラワーエッセンスをそんなふうに使っていこうとするときには、内面の旅の全体像をざっくりと知っておくことが助けになるんじゃないかというのが一連の記事を書いている理由です。

(つづく)

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*1:エドワード・バッチ ジュリアン・バーナード編集、谷口みよ子訳 『エドワード・バッチ著作集―フラワーレメディーの真髄を探る』 BABジャパン 2008 50p

 

スターオブベツレヘム(2015/2/1)

スターオブベツレヘム(2015/2/1)

 

 

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