子どもを学校に行かせるボタンとコンステレーション

★この記事は更新から1年以上経過しています★

退官記念講義「コンステレーション」

こころの最終講義』は河合隼雄先生としては例外的な本で、唯一の講義集です。それは臨床家としての先生のこだわりだったろうと思います。講演はそのときその場での聴衆との「関係」によってなされるものなので、筆録されることを先生ご自身が嫌ったからです。

講演ということ自体できるだけ避けていらっしゃったようです。異なる場で異なる人々に対して「型」にはまった同じ話を繰り返すようになって、「型」にはまった思考しかできなくなることは心理療法家には致命的というわけです。実際講演がうまくなるにつれて心理療法の方が後退する人を見かけると書かれています。

河合隼雄先生の京大退官記念講義「コンステレーション」をテレビで見たとき、自分の中に強く残ったことの一つは、「子どもを学校へ行かせるボタン」を探していないか?という自分自身への問いでした。

子どもを学校へ行かせるボタン

まだ「不登校」という言葉もなかったころから先生は学校へ行かない子どもさんと会われていましたが、当然親御さんとも会われていたわけで、そういうとき必ず聞かれたそうです。「なぜこうなりましたか?」と。

理由は何か? 原因は何なのか?

それがわかれば結果をコントロールできるというのが因果論的な考え方のすごいところですね。そして、河合先生は実際にこう言われたことがあるそうです。「・・・・うちの息子を学校へ行かせるボタンはどこにありますか?」と。

命あるものと命あるものが会うということは関係ができること

けれども、子どもをボタンで操作することはできないことです。子どもは生きているから、命あるものだから。命あるものと命あるものが会うということは関係ができることだと先生はおっしゃっています。

にもかかわらず、僕らは理由や原因を突き止めようとして結果をコントロールするために、自分との関係を忘れがちですね。そこには「私」を問題にしたくないということもあるのではないでしょうか。「私」は原因と結果の外側にいてボタンを押す存在であれば頭だけで物事が処理できます。

たとえば、学校へ行かない理由が怖い先生がいるからということになれば、それは学校がわるいということになって、先生をかえることがボタンになるかもしれません。そのときに親である「私」は子どもが学校へ行かないことや怖い先生がいることの外側にいます。

日常でもこのような考え方が私たちを支配していないでしょうか。たとえば自分の子どもさんや友達にフラワーエッセスを選ぶときに「私」はどこにいるでしょうか。その現象の内側でしょうか、それとも外側でしょうか。

河合先生は因果論の大切さを認められたうえで、人が自分のことを考えたり、他人のことを考えたりするときに因果的に考えすぎると間違いを起こすのではないかとおっしゃっています。

生きていることは全体がお互いに関係をもっている

生きているということは絶対に外側にはいられなくて、自分も現象の内側にいるということですよね。学校へ行かない子どもと怖い先生と「私」は同じ現象の中にいてお互いに関係をもっているというのが、生きているということですね。

何が原因で誰が悪いというのではなくて、学校へ行かない子ども、怖い先生、「私」、・・・の現象全体に何がコンステレートしているのかという見方をすると、「私」の生き方が変わってきます。コンステレーションという考え方をすると、頭だけで処理するようなわけにはいかず、生き方にまで影響するような全人的なかかわりをしたくなります。

自分自身について考えるとき、人について考えるとき、因果論的な眼で原因と結果を突き止めようとするだけでなく、「私」を内側においた全体のコンステレーションを見る眼がとても大事になると思います。

それじゃあ、因果論的な原因、結果の考え方じゃないコンステレーションって、どういう考え方?自分を現象の内側において見ると、どんな景色が見える?といったあたりを、次の投稿で考えてみたいと思います。

 

コメントを送信

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

Shares
Share This