自分の感覚を信頼すること、自分で試してみること…自己定義を明け渡すな
最近思い出したことの一つに子どもの頃の「好きなことをやっているときの感覚」ということがあります。
その感覚自体を思い出したというより、あんな感じで好きなことをやれてるかな…と考えてみるのです。
たとえば、アリの巣を見つけて、アリたちの活動を時間を忘れて見ていたときの自分とか…
蜘蛛の巣で作った超自然派(笑)の虫取り網で蝉を捕っているときの自分とか…
あの時のような自分が今いるだろうか?
フラワーエッセンスのことやってるときに、その自分はどこにいるだろう?
そういう感覚、忘れてるときがたくさんあるかもしれない。
何が違うんだろう?
あの時と。
自分の感覚を頼りに行動してるか、してないか、みたいなとこかな。
本に書いてあったからとか、大好きな先生が言ってたからじゃなくて。
それって本当なんだろうか?
自分で試してみたらどうなるだろう?
自分の中からわき起こってくる興味や好奇心や疑問や不思議…。
そういうのを軸に行動してたな。
それらと自分がまだ二つになっていなかった。
僕は植物に会いに行くようになって、
自分で自分のためにフラワーエッセンスをつくって服用を続けるようになって
そういう感覚を少しずつ思い出してきたように思います。
それと並行して自分への信頼、世界への信頼も増してきた。
それで思うのですが、
誤解を恐れずに言えば、
フラワーエッセンスはすばらしいものだけれども、
フラワーエッセンスが自分を目的地に運んでくれるわけではありません。
プラクティショナーが自分に起こっていることの意味を解読してくれるわけではありません。
もし、フラワーエッセンスが目的地に運んでくれたり、
プラクティショナーが答えの果実をくれたりすることを期待しているとしたら、
そういう自分も否定しないで、
ただ自分の感覚の根っこを信頼するところに戻ってほしい。
少しずつ、少しずつそれを育てることをやってほしい。
自己定義を自分以外のものや、自分以外の誰かに委ねてしまったら、
どこまでいっても自分への信頼は、世界への信頼は育たない。
僕はそう思うのです。
フラワーエッセンスや植物は目的地まで自分を運んでくれはしませんが、
歩き方を教えてくれます。
目的地がどこに変更になっても大丈夫なように。
プラクティショナーは美味しい果実を手渡してはくれませんが、
フラワーエッセンスや植物と一緒に根っこに養分を与えることに力を尽くしてくれます。
想像を超える美味しい果実が実るように。
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