内面の旅の途中で出会うドラゴンについて

2023年10月24日

内面の旅の途中で出会うドラゴンについて

フラワーエッセンスを日常の心のバランスを整えるために使っているとき、つまり自我の活動の範囲を中心に使っているとき、フツーに言うと、「私」が意識している範囲で使おうとしているときには、ドラゴンの存在はさほど気にならないかもしれません。

けれど、いったんそこに「たましい」や自分の中のドングリがかかわってくるような範囲でフラワーエッセンスを使おうとすると、ドラゴンのシッポの気配を感じるようになると思います。

そもそもドラゴンなんかに会いたくないと思っている僕ら(の自我)は、そこを避けて近道をして目的地にたどり着きたいと思うのがフツーです。自我は自分を安全に保つために境界を守って論理的、合理的に考えてドラゴンなんかには近づくべからずという結論を出すでしょう。

それは本当にその通りで、そうやって危険を避けることによって自我は僕らを守ってくれます。それは外側の世界でも、内側の世界でも同じです。

けれども、一方で僕らの中のドングリは「自然に」芽吹こうとします。自分が誰かを知ろうとします。たましいはドラゴンの正体を知りたいと望みます。なぜなら、ドングリはそもそも芽吹くものだから。それが内なる自然だから。それが生命だから。

たましいの声に耳を傾けることに僕らの自我がGOサインを出せば、遅かれ早かれドラゴンと折り合いをつけながら内面の旅を続けていくことになります。だからといって、今すぐドラゴンに対峙しなくちゃいけないなんてことはない。今はまだその力が自分(自我)にないと思う時は逃げているのが安全です。逃げているのがいいと思う。

けれども、いつかは勇気を振り絞ってドラゴンに立ち向かわなくちゃいけないときが来ます。自我の境界がある程度安定して、それを育むもっと大きな安全な器が支えとして機能していれば、それは必ず超えていけます。

そして、気がついてみると驚異的に恐ろしくて、どでかいと思っていたドラゴンのはずが、もし向き合ったりしたらきっと世界の終わりだと思っていたドラゴンのはずが、光り輝く玉を抱く純真で神聖な子どもの自分に変身したりします。だからドラゴンを無闇に怖がることはないと覚えておくのもいいと思います。

ネガティブな気持ちとドラゴンの関係

僕らがフラワーエッセンスで取り組むようなネガティブな気持ちを経験するときや、フラワーエッセンスを使っていてネガティブに感じるときに、私とドラゴンとドングリの間で何が起こっているのか、その全体像が大まかにわかれば、ドラゴンへの恐怖も少しはましになるかもしれないし、なんとかその時点でドラゴンと折り合いをつける方法も思いつきやすくなるかもしれません。

フラワーエッセンスを使って、正直に自分の気持ちや感情や行動パターンに向き合って選ぶということをやっていくと、おそらくどこかの時点で、できれば向き合いたくないことや、向き合うことが難しいことが気になり始めるんじゃなかと思います。

まず確認しておきたいのは、そういうことが起こってくることは、うまくいっていないのではなくて逆に取り組みが真摯に行われている証しだということです。

人間なら誰にでも向き合うことが難しいことはあるわけで、僕らはそれを自分の中の「ネガティブな」ことだと感じて、そこにはできるだけ触れないようにしていると思います。というか、フツーは触れないようにしているという意識もあまりないと思います。自分自身に耳を傾けることを通してそういう声も届くようになっているということは、取り組みが真摯に行われているということだと思います。

そのような自分の中の「ネガティブ」は普段はほとんど気にならないし忘れているけれども、何かの出来事がきっかけに、それが起き出してきそうになったり、突然そのことで自分の中がかき乱されたり・・・。たいてい独特の感覚というか、感情を伴っていて、そういう自分の反応は頭でわかっていたとしても止められません。だから余計に自分ではコントロールできない感じがして、ますます自分からは遠ざけておくみたいなことが誰にでもあると思います。

その心の中で遠ざけておきたい何かをここではドラゴンと呼んでみました。ドラゴンは要するに自分(自我)が、受け入れることが難しくて自分の意識から遠ざけてきたり排除してきたりした自分、あるいはそういう自分を映し返すような人であったり出来事であったり・・・です。

フラワーエッセンスには一般に、意識と無意識の境界付近にあるような感情や考えがより意識されやすくなるような作用があります。フラワーエッセンスを服用して、とても印象的な夢を見たりするのもこの作用によるものですね。(それがどうして僕らの内なるドングリの芽吹きを促すことにつながるかはもう少しあとで・・・)

だからフラワーエッセンスによって、時には遠ざけておきたかったことが意識されかかってネガティブな気分を味わってしまうということが起こることもあって、そういうときに何が起こっているかわからないと、

フラワーエッセンスを飲んでいるのに、なんでこんな気持ちになるんだろう?

フラワーエッセンスは私の中のポジティブな性質を目覚めさせてくれるんじゃないの?

なーんだ、フラワーエッセンスってぜんぜん効かないじゃん!

ってことになりかねません。

そういうときに思い出してほしいのは、取り組みは間違っていないということ。フラワーエッセンスは効いてるということ。そして、この感じはこれまで自分が遠ざけてきたドラゴンのシッポが見え隠れしている状況なのかもしれないということです。

ドラゴンを遠ざけておいたのは自分をドラゴンの脅威から守るためです。これまで自分が頼ってきた軸というか枠というか、そういうものがドラゴンによって崩されないように守るためです。だから、ドラゴンを遠ざけておくという態勢をこのまま続けるという選択も、もちろんありです。

けれども、ドラゴンを自分から遠ざけておくために僕らはたくさんエネルギーを使っています。もし、そこに使っているエネルギーを使わなくてもよくなれば、その分のエネルギーを、今を創造的に生きることに使うことができます。

だから、準備を整えてドラゴンに会いにいくというのもありです。フラワーエッセンスを助けにそれを実現していけるといいと思うのです。

私とドラゴンの関係

僕らはみんな、それぞれの毎日を生きながら、同時にその経験を自分の知識というか、考えというか、生き方の中に収めていく、ということをやっています。それをずーっと積み重ねてきて、今の「私」があるわけです。「私」の今を生きながら、その経験を「私」の体系の中に収めていくという二つのことを同時にやっています。

そして、そういう歴史をもつ今の「私」があるからこそ、日々起こってくるいろいろなことをその体系に照らし合わせて判断したり、選択したりできます。

けれども、時に僕らはその「私」が受け入れがたいような自分を垣間見たり、受け入れがたいような経験をすることがあります。これまでずーっと積み重ねてきた「私」の体系に、うまく収まらないような経験に出会うことがあります。

オオイヌノフグリ

たとえば、両親が頑張って生きてきた人で、子どものころからその背中を見て育ち、自分も頑張ることでさまざまなことを達成してきたとしたら、おそらくその人の「私」の体系の中では、「頑張る」ことは当たり前のこととして、そして価値のあることとして、もしかしたら「私」の価値の土台として、収められているかもしれません。

そんな人が怠けたい自分に気づいたり、頑張っても頑張ってもそれが結果につながらないという経験をしたりしたら、それらを「私」の体系に組み込むのは簡単なことではないでしょう。

もし、それをやろうとすれば、これまで築いてきた「私」の体系の一部、または全部を見直して、「怠けたい自分」や「頑張っても結果がついてこないことがあるという事実」が、ある程度矛盾なく収まるように体系の改変に取り組む必要が出てきます。一部ならまだしも、全部となると、もうこれは一大事です。

オオイヌノフグリ

だから、僕らには2つの選択があります。一つは「怠けたい自分」や「頑張っても結果がついてこないことがあるという事実」に意識の光を当てないようにして、「私」の体系に組み入れるなんてことを考えずに、これまで通りの体系の安定の方を優先すること。

もう一つは、「私」の体系はぐらついて一時的に不安定になるかもしれないけれども、体系自体を見直して「怠けたい自分」や「頑張っても結果がついてこないことがあるという事実」もなんとか収めることのできる、新しい「私」の体系を再構築すること。

オオイヌノフグリ

「ドラゴン」と表現したのは、このたとえで言えば、「私」の体系の中に受け入れることが難しくてハッキリ意識されることもなく、意識から遠ざけてきたり排除してきたりした「怠けたい自分」や「頑張っても結果がついてこないことがあるという事実」です。

それらは、「私」の体系にとっては、意識の光のあたらない暗い所にいる、受け入れがたい異質でちょっと得体の知れないもの、いわば「ドラゴン」なわけです。ドラゴンは「私」の体系にとっては「私」を脅かす存在で、下手をすると「私」を解体してしまうかもしれない存在です。遠ざけておきたかったり、ネガティブに感じるのは当然ですね。

オオイヌノフグリ

けれども、見方を変えると、どんな人でも「私」の体系が出来上がってくる過程で、「私はこれが好き」とか、「私にはこれが大切」とか、「私はこれが正しいと思う」とか・・・さまざまな選択を重ねていくわけですが、それは同時に選択しないものや捨てるもの、排除するものを選んでいくことでもあります。

だから、ドランゴンは「私」から捨てられた影の私でもあります。「私」を脅かす存在であるかもしれないけれども、同時に「私」の体系を成り立たせてくれている影の存在でもあります。

自分のドングリが求めているものに耳を澄まし始めるとどこかの時点で、ドラゴンになった彼/彼女に会いに行く旅が始まるときが来ると思います。

「私」の体系の現実とドングリの現実は違う

どうして「私」の体系、なんてことをわざわざ持ち出したかというと、ドングリ(たましい)と「私」(自我)とドラゴン(影)の関係を、なんとかフツーの言葉で表現できないかということを試してみたわけです(^^;

これを説明するのがむずかしい理由は、ドングリ(たましい)が「私」と同じ次元にあるのではなくて、「私」を超える存在だからだと思います。つまり、僕らはそもそも、ドングリとはこれこれこういうものですと、因果関係で論理的に説明することができない。ドングリは自我の言葉で言い尽くすことができないものだと思います。

それを表現するには、どうしてもドングリの言葉、つまり神話や物語や芸術といった、たましいの言語の方が都合がいい。フラワーエッセンスを自分の中のドングリとつながるために使いたいときに、僕らがまず意識しておきたいことは、「私」の体系の現実とドングリの現実は違うということです。

(その意味で僕は、病気はすべてたましいと心(自我)の葛藤が原因だと、因果関係で直線的に結んでしまうエドワード・バッチの考えのその部分には反対の立場です。)

だから、いかに「私」の体系の現実と、ドングリの現実に折り合いをつけるか、というか、いかにつながりをつけるか、いかに協力体制をつくるかということがとても大事なことだと思います。

誰かに教わった答えが役に立たないとき、ドングリは真価を発揮する

ドングリは生まれた木から何千キロも離れたところに運ばれ、誰に教えてもらわなくても、完璧なオークの木になるすべを知っている。(Dr. Edward Bach)

エドワード・バッチ ジュリアン・バーナード編集、谷口みよ子訳 『エドワード・バッチ著作集―フラワーレメディーの真髄を探る』 BABジャパン 2008 50p

エドワード・バッチが言うように、ドングリはすべてを知っているわけです。だからドングリに地図は必要ない。けれども、僕らは地図がほしい。

その地図は外側の誰かが知っているわけではなくて、ドングリとつながることで、ドングリの言葉に耳を澄ますことでしか知ることができないものだと思います。(セラトー的なテーマですね。)

逆に言うと、誰かが教えてくれる答でなんとかなっているうちは、自分の中のドングリが本当の力を発揮していないけれども、既成の答えが役に立たないとき、僕らの中のドングリは真の力を発揮します。

自分の内側の世界に沈潜しようといっているわけでは全然なくて、ドングリは僕らの内側にも外側にも表現されるので、それがどのように表現されているか(コンステレーションが起こってくるか)に耳を澄ましながら、内側でのつながりと外側での活動を一致させていこうということです。

その意味でフラワーエッセンスはものすごくいいと思うんです。ドングリの言葉に耳を澄まして、ドングリと協力体制をとるときの助けとしてものすごくいいと思います。

もし、フラワーエッセンスをそんなふうに使っていこうとするときには、内面の旅の全体像をざっくりと知っておくことが助けになるんじゃないかというのが一連の記事を書いている理由です。

フラワーエッセンスを服用して起こることと「私」の体系の変化

フラワーエッセンスを服用し始めて、まず起こることは、意識と無意識のバランスが変化し始めるということだといわれています。

それは「ドラゴン」のような深い無意識ではなくて、「私」の体系の中でもいつも光があたっているところと、それに比べて光があたりにくいところのバランスといった感じです。

そのバランスが変化し始めたときに実際に経験しやすいのは、たとえば服用を始めて最初の数日眠かったり、逆に意識がクリアになったり、とても印象的な夢を見たりといったような、睡眠の質やパターンに関連した変化です。

あるいは、緊張が緩んでリラックスしたり、体が休息を必要としていることを実感したり、活力が回復したりといったこともあります。意識していないと、それがフラワーエッセンスによるものかどうかはっきりしないこともあると思います。

そして服用を続けて、「私」の体系の中でもいつも光があたっているところと、それに比べて光があたりにくいところのバランスが変化してくると、それまで意識の隅っこにはあったけれども、ほどんと意識することがなかったようなことが意識され始めるということが起こってきます。自分自身について「気づく」経験です。

たとえば、セントーリを飲んで、今まで平気、いや、あまり平気とも意識していなかったけど、本当は私、いやだったんだー!とか。ふと、そういうことに気づくことがあります。

そういう気づきが起こることによって、自分や周りへの見方が変わって行動や振る舞いが変化していくということにつながります。「平気」と思っているときには「いやだ」と表現するという選択肢はないわけですが、「いやだ」という自分の気持ちに気づくと、どう行動するかという選択肢が増えて自由度が増すわけです。

こういう変化はあまり意識にのぼらないまま起こることもあるかもしれません。気がついたら落ち着いていたとか、気がついたら楽になっていたということもあるでしょう。自分の内側に意識を向ける時間がもてないほど忙しかったりすると、余計に意識にのぼることは少ないかもしれないですね。

大まかにいって普段日常的にフラワーエッセンスを使うときは、言い換えると「私」の体系の範囲でフラワーエッセンスを使うときはこんな感じだと思います。じゃあ、ドラゴンに出会うのはどういうときか、たましいの現実に触れるのはどんなときか、そのときにどんなことが起こるかということを次に書いてみたいと思います。

自我の現実からたましい(ドングリ)の現実への旅と、フラワーエッセンス

僕らは日々の経験を生きると同時に、その経験を「私」の体系の中に収めるということをやっています。その両方の主体となるのが「自我」ということだと思いますが、それによって一人ひとり独自の生き方とか、世界観とか、価値観をもって社会生活を送っています。

もちろん、その体系は育ってきた環境や生活している環境がもっている文化(家庭、地域、国などの文化)に大きな影響を受けています。たいていはある程度その文化が受け入れることのできる価値観や世界観が「私」の体系の土台になると思います。

そして、そのような体系があるからこそ、日々起こってくることに対して、その体系を基準に判断を下したり、選択したりして日常生活をしていけるわけです。

前の節では、このような「私」の体系の範囲で、フラワーエッセンスを使うときに、一般に起こってくるのはこんなことじゃないかな、ということを書いてみました。

もちろん、フラワーエッセンスを服用して経験することは一人ひとり違うので、作用と反応を大まかに捉えた程度にすぎませんが。

ところで、人生を生きているとそれまでの「私」の体系では答えの出ないような経験に出くわすことがあります。

たとえば、ちょっと極端な例になりますが、人生がどうしてもうまく運ばなくなったり、挫折や失望を味わうような経験をしたり、自分や家族の誰かが重い病気にかかったり、大きな不運にみまわれて多くのものを失ったり、愛する人や動物との別れを経験したり…。

そのようなとき、私たちは方向感覚を失い、これまで自分がやってきたことがまったく意味のないことだったのではないかと感じられたり、まったく無力感にさいなまれたりすることがあります。それはある意味突然ドラゴンと遭遇してしまったような経験であるかもしれません。

「なぜ、これが私に(私の家族に、私の恋人に)起るの? 起らなくちゃいけないの?」

多くの場合、この問いに「私」の体系の世界観や、「私」の体系の正義を基準に答えを出そうとしても答えは出せません。自我にとっては最悪にネガティブな出来事で、「なぜ」と考え、何が原因かを探し出そうとしますがうまくいきません。

そのようなとき、その問いの原因ではなく、意味を求める内面の旅がはじまります。僕らは自我の現実からたましい(「ドングリ」)の現実へと旅をすることになります。

ここに挙げた例は極端なものですが、程度の差こそあれ、それまでの「私」の体系に収めることが難しい現実に出会うとき、僕らはそれまでの体系が崩れ去ってしまう危機に直面します。そして、たましいの現実へと旅をして、たましいにとっての意味を探し出し、それを持ち帰って新しい「私」の体系を創造することになります。

日常的なことを超えて、この内面の旅の助けとして、支えとしても、フラワーエッセンスは物凄く力を発揮してくれます。そのときに起ることについては次回の記事で。

自我は僕らの中に今も住んでいる「傷つきやすい内面の子ども」を守る

僕らは、毎日を生きると同時に、その経験から世界ってこんなところなんだとか、自分ってこんな人間なんだみたいなイメージをつくっていく。それが日々経験を重ねていくにしたがって、統一性をもって安定したものになっていく。

そういう活動の主体が自我ですが、自我はそういう安定した体系があるからこそ、過去の経験に基づいて危険なところや人に近づかないように自分を守ったり、ある程度自分が期待される役割やキャラクターと、自分との折り合いをつけて、世界の中で自分の居場所をつくっているわけですね。

その自我の役割の一つは、大人になった僕らの中に今も住んでいる「傷つきやすい内面の子ども」を守ることです。

自我が安定していなかったり、とくに自我のもつ境界の機能が安定していなかったりすると、内面の傷つきやすい子供が安全を感じることができないので、自分と世界とのエネルギーのやり取りがうまくいかなかったり、自分のままで安心していられる場所があると感じられなかったりします。

そうなると日常の世界とのかかわりだけでなく、内面の旅に出るときの安全も保つことができません。ですから、ある程度安定した自我を育てることはとても大事です。

キャロル・ピアソンは自我に関連するアーキタイプとして、幼子(Innocent)、孤児(Orphan)、戦士(Warrior)、援助者(Caregiver)の4つを挙げていますが(*1)、それぞれのアーキタイプに関連するフラワーエッセンスを見つけて、取り組みの助けにするのはとてもおすすめです。(飛ぶフラワーエッセンス教室のJOURNEY1のクラスはそれをやっています。)

たとえば、戦士は何者かが許可なく境界を越えようとすれば、だめだ!と阻止するだろうし、内なる子どもが危険にさらされれば、うちの子に何してくれとんねん!と怒るでしょう。目標を設定してそれを達成する能力も戦士のもっている資質です。

なんでもかんでも勝利を目指して戦いを挑む戦士の影に支配されるのではなくて、自分自身の中の戦士と協力関係を築いて必要なときに、その力を借りることができるといいと思います。

自分にとって本当に大切なもののために立ち上がるとき、目標を設定してそれを実現したいとき、僕らには戦士の協力が必要です。関連するフラワーエッセンスを服用しながら自分の中の戦士と対話するのがおすすめです。

同じように、幼子、孤児、援助者のアーキタイプに関連するフラワーエッセンスを使って取り組みを進めていけば、少しずつ安定した自我に育てていくことができると思います。

自我の役割の一つは、大人になった僕らの中に今も住んでいる「傷つきやすい内面の子ども」を守ることで、ある程度安定した自我を育てることが世界と自分との関係を安定させることにつながること。フラワーエッセンスは自我を育てるための取り組みに大きな助けになります。

逆に自我のもつ機能が育っていないと、自分と自分以外のものとの境界があいまいになって、「ここまでは私の問題で、ここからは私の問題ではない」とか、「ここまでは自分が意識していることで、ここからは衝動的に無意識に反応している」とか、「この部分は外的な現実で、この部分は内的な現実」といった区別が意識されることが難しくなります。

そうなると、人のことまで自分の責任に感じたり、人の影響を強く受けてしまったり、自分以外のことに無意識にエネルギーを使って消耗したり、外側の出来事に内側のイメージを強く重ねてしまったり・・・といったことが起こりやすくなって、「傷つきやすい内面の子ども」が過敏に反応して生きづらい状況を経験することになりかねません。

たましいの器としての自我

それだけでなく、内面の旅を安全に始めることも難しくなります。なぜなら、内面の旅、つまり、たましいの現実へ旅をするときには、自我が安定した器としてはたらくかどうかが旅の安全を左右するからです。

内面の旅を始めると、たいてい準備が整っているかどうかを試されるような状況が訪れます。それは自分がひどく恐れを抱くような状況に直面して、それを超えていくという経験。いわば、「ドラゴンに立ち向かう勇気を試される」ときです。

僕らは、毎日を生きると同時に、その経験を「私」の体系に収めてくということをやっていて、その主体が自我なので、自我の守備範囲は意識の光が当たっているところです。

しかし、たましいとなると意識の光の当たらないところや、個人を超える普遍的なところにも及んでいます。

ですから、自我の器が安定していない状態で意識の光のあたっていない自分、言い換えると「私」の体系から排除してきたような自分、向き合うことを避けてきたのうな自分(ユング心理学でいう「影」)に出会うと不安や混乱や大きな葛藤を経験して、普段の自分を保つのが難しくなるでしょう。成長した自我はたましいの協力者であって、たましいの物語が展開するためのかけがえのない器です。

ドラゴンと内面の旅、たましいの物語

フラワーエッセンスを使って、いや使うかどうかには関係なく、正直に自分の気持ちや感情や行動パターンに向き合って、自我の発展の方向に向いて進んでいくと、自然に自分のたましいが求めるものって何だろうとか、自分にとって本当の幸せって何だろうという、自分の中にずっとあった問いがだんだん大事になってくると思うのですが、それと同時に、自分の中にできれば向き合いたくないことや、向き合うことが難しいことがあることが気になり始めるんじゃなかと思います。

普段はほとんど意識に上ってこないようなこと。・・・人生の局面では何度となく浮上してくる、生き方の土台にかかわるようなこと。これまで後回しにしてきた、どう扱っていいかわからない、自分の中で答えの見いだせない問題・・・。

けれども、僕らはそういうことにあえて向き合おうなんて気にはなかなかなれません。いや、なかなかじゃなくて絶対なれません。そんなものは絶対迂回してうまく切り抜けたい。実際、それに向き合う以外の方法をさんざん試してみたりする。

そこまでして僕らが避けたい理由は、それが「私」の体系の安定を土台から脅かすように感じられるから。それは「私」の体系から排除してきたものだから。排除することで安定を保ってきたものを、もし体系に組み入れるとなると、自我は体系自体の大改築を迫られます。

僕らがドラゴンに立ち向かうことができるのは、たいてい立ち向かわざるを得ない状況が訪れて、…そういう状況が訪れることには少なからず偶然が関与しているのですが…、やっと覚悟を決めて旅に出る、みたいな感じだと思います。

けれども、自分のたましいが求めるものって何だろうとか、自分にとって本当の幸せって何だろうという、自分の中にずっとあった問いがだんだん大事になってきて、だんだん深まっていくことと、ドラゴンの登場はどうやら無関係ではなさそうです。

ある時主人公は旅に出る。
旅の途中でドラゴンに出会い、
なんとかドラゴンを退治して、
囚われていた犠牲者を救い出す。

宝物を見つけて持ち帰り、
持ち帰った宝物と旅の経験で得たものによって
彼の人生は新しいものになり、
かかわる人すべてに影響を与え、
彼の国はもまた新しくなる。

こうした筋書きが土台となっている物語がたくさん存在し、それらを読んだり、見たりする僕らが心を動かされるのは、もともと心の深いところにみんなが共有している、たましいの物語とでもいえるものがあるからだと思います(*2)。こうした内面の旅、…僕ら一人ひとりが自分のドラゴンに立ち向かって宝物を手に入れる旅の助けとしても、フラワーエッセンスは物凄く力を発揮してくれます。

フラワーエッセンス療法を通して経験する癒しの4つの段階

FESのパトリシア・カミンスキーさんは、フラワーエッセンス療法を通して、僕らが経験する可能性のある癒しの段階を4つに分けて説明しています。(*1)

第1段階:解放、リラクセーション、活力の回復
第2段階:認識
第3段階:反応、抵抗、受容
第4段階:再生、再構築

第1段階は、過剰なエネルギーや滞ったエネルギーが解放されて、リラクセーションや活力が経験され、睡眠パターンや呼吸のリズムが変化するような段階。第2段階は、フラワーエッセンスによる反応が意識レベルで認識される段階で、これまで無意識だった思考や感情が認識できるようになり、新たな視点が生まれる段階。

この第1段階~第2段階は、<フラワーエッセンスを服用して起こることと「私」の体系の変化>で取り上げました。

第3段階は、傷に取り組む段階と表現されていて、過去の経験をたましいの経験として新たに認識しなおす段階で、古いパターンと新しい可能性との対立によって強い葛藤が経験される「目覚めの危機」と呼ばれる過程、内的な「死と再生」のプロセスの始まりです。

第4段階は、自分の人生をたましいの経験として理解し、内的な感覚を頼りに自分を再構築する段階で、新たな可能性が人生に表現される段階です。

第3段階は、「ドラゴンに出会い、なんとかドラゴンを退治して、囚われていた犠牲者を救い出す」段階で、第4段階が、「宝物を見つけて持ち帰り、持ち帰った宝物と旅の経験で得たものによって、彼の人生は新しいものになり、かかわる人すべてに影響を与え、彼の国はもまた新しくなる」段階ということになります。

大まかに言うことを許してもらうと、第2段階までは自我の現実の範囲、第3段階以降はたましいの現実に触れる段階ということになります。だから、日常の中でフラワーエッセンスを使っているときには、第2段階までをいろいろなテーマについて(いろいろなフラワーエッセンスを使うことによって)やっているという感じではないかと思います。

そして、第3段階以降に進むときに経験することは、いわば自我の現実から、たましいの現実への移行をうながすような経験なわけで、「通過儀礼(イニシエーション)」的な経験といっていいと思います。

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*1:キャロル・S・ピアソン著、鏡リュウジ監修、鈴木彩織訳 『英雄の旅 ヒーローズ・ジャーニー 12のアーキタイプを知り、人生と世界を変える』 (原書『Awakening the Heroes Within』)

*2:キャロル・S・ピアソン著、鏡リュウジ監修、鈴木彩織訳 『英雄の旅 ヒーローズ・ジャーニー 12のアーキタイプを知り、人生と世界を変える』 (原書『Awakening the Heroes Within』)

*3:Patricia Kaminski “Flowers That Heal: How to Use Flower Essences”  Newleaf 1998 48p-51p


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癒し

Posted by takahara.daisuke