フラワーエッセンスと、ネガティブと、ドラゴンについて-2
私とドラゴンの関係
僕らはみんな、それぞれの毎日を生きながら、同時にその経験を自分の知識というか、考えというか、生き方の中に収めていく、ということをやっています。それをずーっと積み重ねてきて、今の「私」があるわけです。「私」の今を生きながら、その経験を「私」の体系の中に収めていくという二つのことを同時にやっています。
そして、そういう歴史をもつ今の「私」があるからこそ、日々起こってくるいろいろなことをその体系に照らし合わせて判断したり、選択したりできます。
けれども、時に僕らはその「私」が受け入れがたいような自分を垣間見たり、受け入れがたいような経験をすることがあります。これまでずーっと積み重ねてきた「私」の体系に、うまく収まらないような経験に出会うことがあります。

たとえば、両親が頑張って生きてきた人で、子どものころからその背中を見て育ち、自分も頑張ることでさまざまなことを達成してきたとしたら、おそらくその人の「私」の体系の中では、「頑張る」ことは当たり前のこととして、そして価値のあることとして、もしかしたら「私」の価値の土台として、収められているかもしれません。
そんな人が怠けたい自分に気づいたり、頑張っても頑張ってもそれが結果につながらないという経験をしたりしたら、それらを「私」の体系に組み込むのは簡単なことではないでしょう。
もし、それをやろうとすれば、これまで築いてきた「私」の体系の一部、または全部を見直して、「怠けたい自分」や「頑張っても結果がついてこないことがあるという事実」が、ある程度矛盾なく収まるように体系の改変に取り組む必要が出てきます。一部ならまだしも、全部となると、もうこれは一大事です。

だから、僕らには2つの選択があります。一つは「怠けたい自分」や「頑張っても結果がついてこないことがあるという事実」に意識の光を当てないようにして、「私」の体系に組み入れるなんてことを考えずに、これまで通りの体系の安定の方を優先すること。
もう一つは、「私」の体系はぐらついて一時的に不安定になるかもしれないけれども、体系自体を見直して「怠けたい自分」や「頑張っても結果がついてこないことがあるという事実」もなんとか収めることのできる、新しい「私」の体系を再構築すること。

前の記事で「ドラゴン」と表現したのは、このたとえで言えば、「私」の体系の中に受け入れることが難しくてハッキリ意識されることもなく、意識から遠ざけてきたり排除してきたりした「怠けたい自分」や「頑張っても結果がついてこないことがあるという事実」です。
それらは、「私」の体系にとっては、意識の光のあたらない暗い所にいる、受け入れがたい異質でちょっと得体の知れないもの、いわば「ドラゴン」なわけです。ドラゴンは「私」の体系にとっては「私」を脅かす存在で、下手をすると「私」を解体してしまうかもしれない存在です。遠ざけておきたかったり、ネガティブに感じるのは当然ですね。

けれども、見方を変えると、どんな人でも「私」の体系が出来上がってくる過程で、「私はこれが好き」とか、「私にはこれが大切」とか、「私はこれが正しいと思う」とか・・・さまざまな選択を重ねていくわけですが、それは同時に選択しないものや捨てるもの、排除するものを選んでいくことでもあります。
だから、ドランゴンは「私」から捨てられた影の私でもあります。「私」を脅かす存在であるかもしれないけれども、同時に「私」の体系を成り立たせてくれている影の存在でもあります。
自分のドングリが求めているものに耳を澄まし始めるとどこかの時点で、ドラゴンになった彼/彼女に会いに行く旅が始まるときが来ると思います。
(つづき ⇒ フラワーエッセンスと、ネガティブと、ドラゴンについて-3)

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