傷を負った癒し手とフラワーエッセンス(5):私たちの中のキロン

傷を負った癒し手とフラワーエッセンス(5):私たちの中のキロン

傷を負った癒し手とフラワーエッセンス(1):バッチ医師の命日が近づいて
傷を負った癒し手とフラワーエッセンス(2):神話の中のキロン
傷を負った癒し手とフラワーエッセンス(3):不治の傷
傷を負った癒し手とフラワーエッセンス(4):「傷を負った者」と「癒し手」の両方を生きる・・・からの続きです。

 

僕らの中のキロン

古代の神話に登場する偉大な癒し手は、完全で、病むことからもっとも遠いところに位置する神ではなくて、自ら癒しがたい傷とその痛みに向き合い続ける神であることに深い感銘を受けます。

神話というものが、僕らのこころの深ーい無意識の層、個人を超えてみんなが共有しているような無意識の深い層が生み出しているイメージだとすれば、キロンのような偉大な癒し手は僕らの中にも生きている、あるいは眠っている存在です。

 

傷に向き合う

自分自身の傷に向き合うことで僕らははじめて、他の人の傷の痛みやその人にとっての傷の意味にこころを開き、こころを寄せることができます。

でなかったら、癒し手は一段高い安全なところから自分の得意な理論で傷の原因をすべて理解してしまう、といったことが起こりかねません。これは本当に恐ろしいことです。

神話の物語の中で、キロンはそのことを身をもって、生き様をもって示してくれていると思うのです。

 

傷とたましい

傷つくところは人によって違います。同じ環境の中にいたからといって同じように傷つくとは限りません。現実的な意味ではなく神話的な意味では、傷は自分のたましいにとってもっとも尊いものとつながっていると思います。それが否定されたと感じるとき、人は傷を負います。

 

内なる癒し手

キロンのような偉大な癒し手は僕らの中にも住んでいます。その内なる癒し手が目覚めるのは、誰かが完璧な理論で傷の原因を説明してくれるときではありません。傷の痛みやその人にとっての傷の意味にこころを開き、こころを寄せてくれる存在がいると実感できるときだと思います。

それは自分にとっても言えること。傷の原因を説明できることではなく、傷の痛みや、他の誰かではない私にとっての傷の意味にこころを開き、こころを寄せる自分がいることではないかと思います。

 

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