「偶然」について、少し・・・

2020年10月18日

偶然

偶然

どんなに意識的に努力しても僕らの力ではどうすることもできないことに「偶然」ということがあります。

フラワーエッセンスを使っていると偶然というのは本当に不思議だと感じることが少なくありません。それはフラワーエッセンスが私たちの意識と無意識の関係にはたらきかける力をもっているからかもしれません。

偶然は私たちの意志の力ではどうにもなりませんが、人生にはその偶然というのがこの上なく大きな影響を及ぼすことがあるのも事実です。そして後から考えるとその偶然は、とても偶然とは考えられないと思えるようなことがあります。自分の物語の中で、その偶然がそれ以後の物語の展開にものすごく重要な契機だったと思えることがあります。

意味のある偶然の一致

ユングはそれを「意味のある偶然の一致」と呼び、世界は因果律だけで説明はつかなくて、共時律(シンクロニシティ)ということがあるのだと主張しました。(人によってはシンクロニシティを因果で説明づけようとする人がいますが、それは厳密にはユングの言ったこととは違います。たとえば、まったく別の事象を因果関係で説明しようとしたり、必然で結び付けようとしたりといった感じで。フラワーエッセンスを飲んだから恋人と出会ったみたいな・・・。)

ユングはその「意味のある偶然の一致」をとても重視したわけですが、それは自我の意識的な力の及ばないことだけれども、「自己」(個人を超える無意識をも含めた私全体の中心的な機能って感じかな)による機能ではないかというわけです。魂があらかじめ宿している種子というか、あらかじめもっている目的というか、その実現にむけての自己のはたらきが作用しているというわけです。

偶然の意味を自我の一方的な視点から意味のないものとして捨ててしまうこともできるし、偶然の意味に自分を開いておくこともできるわけです。(偶然の意味に自分を開いておくことと、単純に偶然を因果て結び付けることとは違います。)

自我の視点と自己の視点

たとえば、自我の視点からは苦しくて避けて通りたいと思うようなことも、自己の視点からは魂が宿している種子が花を結ぶための養分だったりするかもしれません。だからと言って物わかりのいいふりをして、はい、これは私のたましいにとって意味のあることですからと修行僧のようになる必要はなくて、逆にぎゃーぎゃー言いながら・・・、冗談じゃねー、こんなのやってられるか、と言いながらでも、どこかで「たましいの宿している種子」のことを忘れないでいるのがいいのではないかと思います。

他者と共感

人の癒しや成長にかかわることは、その人に起こっていることの意味を、自分にできる限り、理解しようと努めながらその人の道を見つける手伝いをすることだと言えるかもしれません。それは決して自分の枠の中での相手の意味ではなく、自分とは違う「他者」にとっての意味です。

そして、ここはものすごくパラドックスなのですが、その「他者」の意味を共有させてもらうことができたときに、はじめて「他者」ではなくなる共感が生まれるように思います。

個性化

Posted by admin_takahara