種子の力を信じて見守る眼差しとは

どんなものでしょう。

 

どんな人の中にある種子も、

種子は自分の力によって、

自分の中の自然の力によって、

芽吹きます。

その力は決して外側から

与えられる力ではありません。

 

ドングリは生まれた木から何千キロも離れたところに運ばれ、誰に教えてもらわなくても、完璧なオークの木になるすべを知っている。(Dr. Edward Bach)*1

オークになるすべを知っているのは

オークのドングリであって、

他のドングリではありません。

芽吹くすべは、他の誰かが教えられる

ハウツーではありません。

 

けれども、種子が芽吹くのを

助けたいと思う人は、

暗い大地の中に眠る種子に

光を届けたいと思います。

光を見つけようと必死にもがく姿を

見守るだけではなくて、

なんとか手を貸したくなります。

 

そう僕らは、

種子は自分の力で芽吹くと知りながら、

その人の心に

寄り添えば寄り添うほど、

その人のことが

我がことのように感じられ、

なんとかしてあげたくなります。

その気持ちこそ、

眠っている種子が芽吹くための光です。

 

そして、その気持ちに加えて、

もう一つとても大事なことがあります。

 

それは芽吹く過程自体には

手出しできない、ということです。

 

種子は自分の力によって、

自分の中の自然の力によって、

芽吹きます。

それをじゃましない。

余計なことをしない。

心に寄り添って

我がことのように感じながら、

同時に芽吹くことを信頼して、

できる限り何もしない。

 

たとえば、これから春に向かう

樹木を観察に出かけて、

芽吹きかけた冬芽の外皮が

うまく脱げ落ちない木を

見つけたとします。

だからといって、

僕らがそれを手伝うことは

芽吹きを台無しにしてしまう

危険があります。

 

 

僕らは人の心に

寄り添えば寄り添うほど、

他者という視点を忘れがちです。

その人の中の

種子が見つけようとしているのは、

その種子の光であって、

手助けしようとしている人の

それではありません。

そのことを

肝に銘じておかねばならない。

なぜなら、僕らは心を寄せるとき

その二つを簡単に混同してしまったり、

自分の方に沿わせたくなってしまうから。

 

自分とは違う物語を

ここまで生きてきこられた

他者なのだという敬意。

その道のりと

互いの世界の違いを

認めながら心に寄り添い

種子の力を

信じて見守る。

その眼差しは、

きっと眠っている種子が

目覚めるための光となり、

水となるでしょう。

 

そして、幸運が訪れれば、

そこには種子の

「本当の物語」が生まれ、

借り物の物語の呪縛から

自由になることができるでしょう。

 

種子の力を信じて見守る眼差しは、

心に寄り添うやさしさと

自らの種子を生きる厳しさを

同時にもった眼差しのこと

ではないかと思います。

もちろん、それは自分の種子を

生きている人の眼差しです。

 

 

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