ゲーテの対象的思考と「自分の世界を出ること」
フラワーエッセンス的な植物観察の前に知っておきたい情報として、どうしても「植物のメタモルフォーゼ」のことを書かないと、と思って記事を書き始めているのですが、その前に本の整理をしていて思わぬ発見があったので、そのことを先に・・・

今、読まなくなった本を整理しているのですが、そう、冬至も近いことやし・・・それでその中にシュタイナー関連の本がいくつかあって、『シュタイナーの治療教育』という本を、もう要らないなと思いながら、でも何が書いてあったけ?と、なにげなくパラパラとめくっていたら、ゲーテの対象的思考とういのがあって、読んでみると、んっ!。・・・ということでこの本については手放すのをやめました(笑)
というのは、「植物が教えてくれる『自分の世界を出ること』」や「植物の言葉・・・大地や水や風や光を通して」の記事で書いたこと、つまり植物観察や人との関係のなかで、一番大事で、一番のよろこびにつながるんじゃないかと言ったことが、まさに対照対象的思考のことのようなのです。そりゃー、そうですよね。フラワーエッセンス的な植物観察はゲーテの自然観察の方法論を実践しようとしているわけですから。
で、対象的思考って何かというと、要するに自分の世界を出て対象が自ら語る言葉に耳を傾ける、ということです。もし、ゲーテに詳しい方で補足していただける方がいらっしゃったらよろしくお願いします。
朝起きて空を眺めたときに、その空に雲が浮かんでいるとします。私たちはふつう、あれは巻雲だとか層積雲だとか考えて、あそこに層積雲が浮かんでいる、ということで済ませてしまうと、それは従来の思考方法になります。その場合は自分の中にある概念で対象を判断しているのです。対象的思考というのはそういうことを一切忘れて、その雲をじっと見つめて、その雲が語りかけてくる何らかの意味を聞き取ろうとする態度なのです。
高橋巌 『シュタイナーの治療教育』 角川書店1989 34p
植物をスケッチしていて形や色をたどるときのモードですね。それに対して、あー、あの雲、雪見大福みたいだなー、とか、天使みたいだなーとか、というのは自分の中にあるものに当てはめている従来の思考方法ですね。そういう自分の中にあるものをいったん脇に置く(思い浮かんでもそのまま流してひたすら対象に耳を傾ける)ことなので、普段そんなふうにものを見ない僕らにとっては簡単ではありません。頭ではわかっていても訓練しないとできないですね。だから植物観察は、植物がそれを手伝ってくれるわけで、楽しさも経験できて一石二鳥です。
先生が教室に入って子どもを見たときに、何々君がそこにいるというふうに見ると、それは自分の中にすでにある、例えば太郎君なら太郎君という概念を、その太郎君にあてはめていることになって、従来の思考方法なのです。しかしそういうことを離れて、その太郎君の顔色だとか、座っている姿とか、歩き方、声の響き、目つき、顔の表情とかをじっと見つめて、そこから今の太郎君の存在が語ろうとするものに耳を傾けようとすると、対象的思考になります。
高橋巌『シュタイナーの治療教育』 角川書店1989 34p
個人的に思うのは、まさにプラクティショナーが本当の意味で仕事をするときの態度なんじゃないかと思います。もちろん、セッションの間中つねにこのモードではなくて、いくつかモードがありますが、入ろうと思ったときにいつでもこのモードに入れるように訓練することはとても大事なんじゃないかと思います。
従来、私たちは自分の中にある概念を何かに当てはめることで満足していることが多いので、対象的思考を働かせる余地はあまりないとも言えます。ところが周囲の事物は、それぞれが何らかの意味を、今、こちらに向かって語りかけているので、その語りかけに耳を傾けるのと傾けないのとでは、周囲の世界と自分との関係が、まったく違ってくるのです。
高橋巌 『シュタイナーの治療教育』 角川書店1989 34-35p
この辺のことは、心理療法家の故河合隼雄先生や精神科医の神田橋條治先生が言っていることに重なるように僕は思います。その辺のつながりについてはまた機会を改めて・・・。
ディスカッション
コメント一覧
対照:ある物・事を他と照らし合わせ、つき比べること。
対象:精神活動が向けられるもの。
どう考えても、
対照→対象
と、私は考えます。
それ以外に関しては、基本的に同意します。
どう考えても「対象」ですね。
2箇所(タイトルと文中)間違っていました。訂正しました。
ご指摘ありがとうございました。