植物が教えてくれる「自分の世界を出ること」
植物が教えてくれることは
たくさんあります。
丹念に観察すると
必ず「発見」があります。
とくに時間をかけてスケッチして
形や色をたどっていくと
たくさん発見があります。
そして、発見すると
物凄くうれしいし、楽しいですね。
思わずひとりで「おー!」とか、
「そういうことかー!」とか
声が出てしまいます。
そういう「発見」を通して
植物が教えてくれる
物凄く大事なことの一つは
「自分の世界を出る」ということ
じゃないかと思います。
たいてい僕らは
無意識のうちに植物について
勝手なイメージをもっています。
自分の世界の枠の中で
植物をとらえています。
けれども、植物を丹念に観察すると
その自分の枠を出ざるを得なくなります。
そのときが発見の瞬間です。
勝手なイメージが崩れ去るときで、
植物が本当の姿を見せてくれるときです。
実際の例をあげる方が
わかりやすいと思うので、
ちょっと長くなるかもしれませんが、
ドクダミの例を見てみましょう。
ドクダミの花は見たことありますよね。
4枚の白い苞(ほう)がありますね。
あれは花びらではなく苞なのですが、
4枚全部同じ形だと思っていませんか。
ドクダミの4枚の苞は
全部同じ形ではありません。
下の写真だと、
下の1枚が長いというか、
大きいのがわかると思います。
これを発見すると、
そうなのかと思いますね。
そしてここからがさらに面白くて、
なぜ形と大きさが違うのかということです。
なぜかというのは
蕾から開花するところを
観察することによってわかります。
上の写真でも
苞の根元に注目すると
どのように重なっているかが
わかると思いますが、
上の写真の下側の苞が
蕾の一番外側を包んでいる苞なのです。
だから、他よりも少し大きい!
(↑)この写真では右側の苞が一番外側の他より大きな苞で、最初に開くところです。
(↑)この写真では最後の苞だけがまだ開いていません。これを見ると蕾のときに苞がどのように重なってたたまれているかがよくわかりますね。さらにこの重なりは、葉の付き方がメタモルフォーゼしたものという発見もあるのですが、長くなるのでこの辺にしておきます。
こうした発見は
「最初4枚の苞が同じ形だと
思っていたけど実は違った」
というところから出発しています。
自分の世界の枠の中で
描いたイメージは
「4枚の同じ大きさの
白い花びらのようなもの」
だったわけですが、
ドクダミと時間を共にして
丹念に形をたどってみると、
自分の思い描いていたイメージは崩れ去って
ドクダミが本当の姿を現してくれます。
もちろんすでに知っている人にとっては
なんてことないかもしれませんが
これを自分で発見して
その喜びを自分のものとして
体験することが大事だと思います。
そのようなときに何をやっているかというと、
自分の世界の中で思い描いていた、
きっとこうだろうみたいなものを捨てて、
観察したりスケッチしたりして、
そのままの姿を理解しようということです。
これって、人間同士の関係でも
まったく同じだと思うのです。
僕らは自分の世界の枠の中で
無意識に描いたイメージを
相手に重ねて見ています。
それは誰にでも普通に起こっていることで、
それ自体が悪いわけではありません。
けれども、相手を本当に理解したり、
共感したりする瞬間は、
自分の世界の枠の中で
描いたイメージが崩れる時だと思うのです。
それが崩れてそのままの相手に
触れることができたときです。
相手を自分の世界の枠の中に入れて
理解しようとするんじゃなくて、
自分とは違う「他者」として
自分の世界の枠を出て
相手の世界を理解しようとする
ときだと思います。
人間の場合には、
自分の世界の枠の中で描いたイメージを
お互いに投げかけあっていて、
ちょっと複雑なわけですが、
植物の場合には
こちらから投げかけているだけです。
そのような意味でも
植物を丹念に観察することを通して
学ぶことは物凄く大きいと思います。
植物は、私たちが
自分の世界を出て相手のそのままの姿に
出会うよろこびを教えてくれます。
そして、それは同時に
そのままの私たち自身と
出会うよろこびでも
あるのではないでしょうか。
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