相手を自分の理解の枠の中に収めようとしない
「重ねて見ていたイメージが
頭や心からハラハラと落ちていく」
というのは、
植物を観察していて、
どんなに小さなことでも
自分で発見したときの
あの「あっ!」という体験のときに
起こっていることです。
たとえば、今の季節に
ホーンビームの木を観察に行ったとしたら、
幹に触れてその硬さを実感するでしょう。
![ホーンビームの幹](/wp-content/uploads/2017/01/Hb_20160210_047-1024x681.jpg)
そして、春になって再び訪れたときに、
その若葉に触れて、
「幹の硬さに比べて、
その若葉のなんと柔らかでみずみずしいことか」と
感動するでしょう。
![ホーンビームの若葉](/wp-content/uploads/2017/01/hornbeam_70-1024x681.jpg)
きっと、若葉が指に触れた瞬間に、
自然に「あっ!」とか、「わっ!」とか
声をあげてしまうかもしれません。
植物に会いに行くことを続けていると、
そういう植物のさまざまな姿に出会い、
少しずつその植物の全体像を
知ることができます。
同時に自分が
どれほど自分の世界の中だけで
勝手なイメージを
作り上げてしまうのかもわかります。
植物についての小さな発見は
それが見事に消えていく瞬間です。
そして、このときの感覚は
人の思いがけない一面に
触れたときの感覚にも
共通するんじゃないかと思うのです。
「この人にはこんな一面があるんだ」とか、
「この人がこんなふうに考えていてくれたんだ」とか、
「そういう経験があったから、
この人はそういうふうに表現せざるを得ないんだ」とか。
もし、僕らが自分の理解の枠に収めようとすることを
少しのあいだ脇に置いて、
相手を
自分とは住んでいる世界も価値観も違う
「他者」として見ることができれば、
その人のそれまで見えなかった輝きや可能性を
もっと見ることができるんじゃないかと思います。
僕らは、一つの季節のその人だけを見て、
他の季節のその人の姿を
わかった気になってしまいがちです。
自分の思い込みや思い入れで描いたイメージが、
もちろん自分では思い込みだなんて思ってはいませんが、
それが崩れて、その人の違った一面に出会うとき。
神田橋先生はそれが「共感」だとおっしゃっていますね。(*1)
僕らは、フツーの人間関係では、
相手を自分の理解の枠の中に収めようとします。
収まったときに理解できたと思うし、
「共感」できたと感じがちです。
けれども、共感は
自分の世界を出て
この手の指で若葉にふれるように
相手の世界に、
触れさせてもらったと
感じるときのことなんじゃないかと思います。
だから、植物に会いに行って、
意識的に
植物のいろいろな姿に触れることで
経験する発見のよろこびは、
自分の世界を出て
他者としての相手の世界に
触れることのよろこびなのだと思います。
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*1:「真の共感が生まれるのは、「思い入れ・思い込み」が描き出した固定したイメージが、なんらかの契機で崩壊して、思いがけない視界がひらけたときです、治療者の体験としては「眼からうろこが落ちた」であり、クライアントの体験としては「通じた」であり、関係の言葉でいうと「出会い」なのです。だからこそ、共感は精神療法でもっとも重要な現象なのです。」(『対話精神療法の初心者への手引き』神田橋條治)
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