傷を負った癒し手

2021年1月17日

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傷を負った癒し手

「傷ついた人、病んだ人の中でも、癒し手の中でも、同じ1つのアーキタイプ「傷を負った癒し手(傷を負った者ー癒し手)」が活性化される」(ユング派分析家アドルフ・グッゲンビュール=クレイグ)

すべての人は「傷を負った癒し手」のアーキタイプとかかわりをもっています。けれども、とくに他者の癒しや援助にかかわろうとする人にとっては直面することを避けて通ることのできないアーキタイプだと思います。

このアーキタイプが人生の中で活性化するとき、あるいは自らそのアーキタイプに近づこうとするとき、私たちは自分自身の傷に、そして自分自身の影に対峙せざるを得ないときがあります。ときに個人的な傷を超えて・・・。

傷を負った癒し手は、自らが癒えない傷に苦しむがゆえに、
傷ついた他者が、彼の傷を経験することに心を開くことができる。

傷を負った癒し手は、自らの癒えない傷に心を開くことができるからこそ、
傷ついた他者が、彼の傷に向き合うことに耐えることができる。

傷を負った癒し手は、自らの癒えない傷と共に歩んできたからこそ、
傷ついた他者の傷の神秘を信頼できる。

以下の動画は「傷を負った癒し手」についてわかりやすいイメージを提供してくれると思います。

癒し手と癒し手の影

人の中の「内なる癒し手」が目覚めることに絶対の信頼をおいて仕事をする癒し手は、自らの暗い部分にも光を当てることになる。

強さの陰には弱さが、謙虚さの陰には傲慢さが、寛大さの陰には嫉妬深さが、柔軟さの陰には頑固さが、許しの陰には復讐心が住んでいることは珍しくない。

それらは、いくら取り組んだからといって完全に消えてなくなったりはしない。光がある限り影がなくなったりはしないように。

もし、影を排除して光だけを求めるなら、影は自分の意識の外で力をもつ。

もし、影を迎え入れるなら、光と影のドラマは意識の内で起こり、内的な経験となる。

意識の外側で力をもった影は、自分と援助しようとする他者との関係に大きな影響を、ときに破壊的な影響を与える。

 

だから、傷を負った癒し手は、いったん自分の意識から排除され捨てられた心の断片との再会を果たさなくてはならない。

受け入れがたい自分自身との、再会までの道のりは決して平坦ではなく、危険も伴う。

その道を超えて、彼らとの再会を果たし、彼らの声に耳を傾け、彼らの存在に心を開くとき、光と影の神秘に触れる。

 

傷を負った癒し手は現象の外側にだけいることはできない。

傷を負った癒し手の仕事の中心は、現象全体を照らす目を持つと同時に、現象の中に生きることを通して行われる。

現象の内側で他者から影響を受けるときにこそ、他者に影響を与えることがでる。

傷を負った癒し手の仕事の土台は、影響を受けた自分自身を変容させることによって他者の変容を手助けすること。

2つの極をもつアーキタイプ

癒し手、つまり何らかの形で他者の癒しや治療や援助に携わる人の中で活性化するアーキタイプは、「癒し手」のアーキタイプではない。

そうではなくて、「傷を負った癒し手」のアーキタイプ、「傷を負った者ー癒し手」という2つの極をもったアーキタイプだ。

と、高名なユング派分析家のアドルフ・グッゲンビュール先生(*1)はおっしゃっている。

傷ついた人、病んだ人の中でも、癒し手の中でも、同じ1つのアーキタイプ「傷を負った癒し手(傷を負った者ー癒し手)」が活性化されると。

 

若い頃こんなことは考えてもみなかった。

アーキタイプのこともよく知らなかったが、「傷ついた人」は傷ついた人、「癒し手」は癒す役割を担っている、対極にある別の存在だと、あまりはっきりとした意識もないままに、そう思っていた。

けれども、そうではなかった。

傷ついた人の中でも、癒し手の中でも、同じ1つのアーキタイプ「傷を負った癒し手(傷を負った者ー癒し手)」が布置される。

 

違うのは、傷ついたり、病んだ人の場合には、「傷を負った者ー癒し手」のアーキタイプの、一方の極、「傷を負った者」が意識され、もう一方の極、「癒し手」は無意識の中に眠っている。そしてそれは外側の癒し手に投影されることになる。

同じように、治療者や援助者の場合には、「癒し手」の極が意識され、「傷を負った者」の極は無意識の中に眠っていて、それは外側の助けを求めて訪れる人に投影されることになる。

助けを求める人と、その人のために助力する人の出会いとその後の関係には、このように「傷を負った癒し手」のアーキタイプが布置されることになる。

ところでアーキタイプって何?

助けを求める人と、その人のために助力する人の出会いとその後の関係は、「傷を負った癒し手」のアーキタイプ、言い換えると「傷を負った者ー癒し手」という2つの極をもつアーキタイプの影響を受けることになる。

アーキタイプ(元型)は、われわれの心の深い層に生れながらに備わっている行動の様式のようなもので、それは個人を超えて共有されている。大雑把に言ってしまうと、人類共通ということだ。

言い換えると、それが強くはたらくような状況では、われわれは自分の心の深いところに備わっている基本的な行動の型のようなものに従って感じたり、振舞ったりしている。

そして、その型はすべての人が共有する同じものなのだ。もちろん、個人個人の感じ方や振舞いがどのように表現されるかはいろいろバリエーションはあるかもしれないが、元になっている行動の様式の型は同じだ。

映画や小説やアニメが世界的にヒットしたりするのも、人々が心の深いところで共有しているもの、つまりアーキタイプに深くかかわっている。

たとえば、「母親と子ども」という関係では、「母親ー子ども」アーキタイプが両者の心の深いところで活性化されることになる。それによって母親は、誰かにやり方を教えられてではなく、本来自分の心の深いところにあるそのような行動の様式の型によって、母性的な気持ちを感じたり、母親的な振舞いをすることのできる可能性を生まれながらにもっている。

そのような行動を生み出す元になる機能がアーキタイプだといわれている。それは学習によって獲得するのではなくて、生まれたときから備わっている。「母親ー子ども」という関係だけではなくて、「父親ー子ども」という関係もそうだし、「男性ー女性」という関係でも、そこで活性化するアーキタイプがあると考えられる。

そして、助けを求める人とその人のために助力する人の関係、治療者や援助者とそれを求める人との関係の中で活性化するアーキタイプは、「傷を負った癒し手」のアーキタイプ、「傷を負った者ー癒し手」元型だ。われわれがどちらの側になるかには関係なく、心の深いところで「傷を負った癒し手」のアーキタイプが活性化される。

内なる癒し手

助けを求める人とその人のために助力する人の関係、治療者や援助者とそれを求める人との関係の中で活性化するアーキタイプは、「傷を負った癒し手」のアーキタイプ、つまり「傷を負った者ー癒し手」という二つの極をもつ元型だ。私たちがどちらの側になっても、心の深いところで「傷を負った者ー癒し手」というアーキタイプが活性化される。

私たちは元型の二つの極を自分の中に持って生まれてくる。外界に元型の一方の極が現れる時には、内的なもう一方の極も活性化するものである。(*2)

仮にそうだとして、私たちが病気になったり傷ついたりして心の中で「傷を負った者」と「癒し手」の両方が活性化されたとして、それでいったい何が起るのだろう。

私たちの普段の意識は、こういった相矛盾する二つのものに同時にフォーカスすることは得意ではない。自分の中の両者の存在を見出すよりも、どっちなのかはっきりさせて、すっきりしたいのが私たちの普段の意識だ。

そうすると、病気になったり傷ついたりしたとき、私たちは自分を元型の「傷を負った者」の極に合わせることになる。そして、「癒し手」というもう一方の極を外側に探し求める。

言い換えると、意識の上では「傷を負った者」の極が、そして無意識内では「癒し手」が活性化される。そして、無意識内で活性化された「癒し手」は外側の治療者や援助者に投影されるということが起る。

つまり、私たちが病気になったり傷ついたりして、外側に癒し手を求めるとき、心の無意識の領域では「内なる癒し手」が活性化されている。この「内なる癒し手」は私たちの中の「治癒力」とか「回復力」と呼べるようなものだ。

外側の癒し手、治療者や援助者は、助けを求める人の中の「内なる癒し手」が目覚めなければ何もできない。どのような手段によるかは別にして、助けを求める人の無意識内の「内なる癒し手」が意識の光の中に芽吹いて成長していくことを手助けすることが、外側の癒し手の仕事になる。

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*1:A. グッゲンビュール=クレイグ『心理療法の光と影』創元社 1981, 118p
正確には、「治療者の元型というものは存在せず、ただ「治療者ー患者」元型が存在するだけである」。また「治療者というのも患者というのも、同じ一つの元型のそれぞれの一面なのだということになる」と。

*2:A. グッゲンビュール=クレイグ『心理療法の光と影』創元社 1981, 117p

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