フラワーエッセンスを学ぶときの方向性
フラワーエッセンスを学ぶときの方向性について
フラワーエッセンスを理解しようとするときに、まず私たちが頼りにするのはそれぞれのフラワーエッセンスの特徴を簡潔に表した言葉の記述ですが、その記述を理解した後にさらにフラワーエッセンスを深く学ぶにはどの方向に進めばよいかについて考えてみたいと思います。
生きたイメージ
いきなりですが、私たちの心が大きく変化するときに、その乗り物?(という表現はたぶん適切ではないと思いますがいい表現が見つからないので)となるのは「生きたイメージ」だと思っています。
「生きた」というのは作ろうとして作れるものではない、つまり意識的な操作ができない、それ自体が自律性をもっているという意味と、深い心の体験に結びついているという意味です。
フラワーエッセンスを実感をもってつかっていくためには、あるいはフラワーエッセンスを助けに深い変容を経験するにはこのことを理解しておくのはとても大事なことに思います。
光源、照らされるもの、影
FESの『フラワーエッセンス・レパートリー』には次のような記述があります。
「花のメッセージは人間の言語を超えた領域に起源をもち、言語による記述では、その存在の豊かさのほんの淡い影しか捕らえることができない」
ですから、私たちがフラワーエッセンスを選ぶときに頼りにする記述は、ある意味「生きたイメージ」を意識の表層でとらえて言葉に置き換えたものです。
これも適切なたとえかどうか自信がありませんが「影絵」がありますね。影絵を思い浮かべてもらえば、影絵の、最終的にスクリーンに映し出された影が、言語による記述ですね。影絵の影が映るためには光源が必要です。そして光源とスクリーンの間には空間があって、そこで動いている立体的な物が、最終的に平面に映し出されて影になります。
だから、フラワーエッセンスを深く理解するには、表面に映し出された言葉の記述にこだわることではなくて、最終的に言葉に表される、影絵の例でいえば、影をつくりだす光源やスクリーンの背後で影を生み出しているものの方をいかに理解するかが大事になってきます。
植物、心の動きとイメージ、フラワーエッセンスの記述
フラワーエッセンスの場合は、光源が、大地に根を張り天に向かって伸びるリアルな植物です。その光源によって私たちの心が照らされて、現れたイメージが最終的に言葉の記述としての影になると考えてみるのは案外悪くないたとえかもしれません。
変なたとえで余計にわかりにくくなったらごめんなさい。言いたいのは、フラワーエッセンスを深く理解するには、言葉の記述に拘り過ぎずに、植物自体や、心の動きを生きたイメージとして捉えることができるといいということです。
豊かな内的世界のなかでこそ
そして、フラワーエッセンスに興味をもつ方の多くは、豊かな内的世界をもっています。生きたイメージはそのような内的世界のなかでこそ生き生きと活動できるので、豊かな内的世界はフラワーエッセンスを使っていくうえでとても大きな財産になります。
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