当たり前を疑ってみる
亀田の柿の種
ときどき無性に食べたくなりませんか。亀田の柿の種。最近「当たり前を疑え」というCMやってますね。
子ども二人を自転車の前と後に一人ずつ載せて走るママツコが、柿の種とピーナッツの配分を、本当は7対3がいいと言うと、子どもたちが「どうでもいい」と言う。それに対してママツコが「当たり前を疑え!」と。
見えていなかったものが見える
私たちにとって当たり前のことは意識にはのぼってきません。意識にのぼってこないということは自分には、見えていない、あるいはとても見えにくいということです。
今回のように、新型コロナウィルスの感染拡大によって当たり前が脅かされる状況になってはじめて、私たちは、これまで当たり前と思ってきたことが当たり前ではなかったのだと気づきます。
目に見えないコロナウィルスによって、これまで見えていなかったものが見えてくるというのは、とても皮肉なことにも思えますが。
同じ光景がもつ違った意味
友達と楽しく食事すること、満員電車で通勤すること、休日に家族で出かけること、志村けんさんのバカ殿を見て大笑いすること、体調が悪くなったら医療を受けられること、ゴールデンウイークに実家に帰省すること、じゃあ、また今度ねと別れること、次も元気で会えること。そういう日常が、私たちは当たり前に繰り返されると思ってきました。明日も、明後日も、来月も、来年も・・・。
けれども、いま私たちの心のなかで同じ光景が違った意味をもち始めているのではないでしょうか。当たり前だと思ってきた日常が、実はいかに尊く愛おしいものであったか。当たり前に繰り返されると思ってきた、心を結ぶ人と同じ空間にいる時間が、実は一度きりの時間の中のたった一つのことであったか。
外側で起こっていることと、内側で起こっていること
世界を覆う新型コロナウィルスの暗雲の下で、これまでの当たり前の日常を失うという現実に直面し、不安になり、混乱し、方向感覚を失った私たちにできることは何でしょうか。
人の心に沿う仕事をしてきた者として思うことの一つは、いま起こっている喪失や死は、外側の世界のことだけではなくて、私たちの内面の世界で起こっている死と再生の物語でもあるということです。しかも、それが全世界的なレベルで起こっているわけですから、まさにユングのいう集合無意識的なレベルで、ということになるでしょう。
「当たり前」の、死と再生
私たちの前に立ちはだかる困難は、否応なく従来の社会的な日常を破壊し、私たちの心を喪失と崩壊の危機に陥れます。すなわちそれは、私たちの心のなかの価値観や世界観や倫理観が一つの死を迎えることに他なりません。これまでの「当たり前」の死です。
けれども、心の世界では死はすなわち再生です。新たな誕生です。これまでの当たり前が終わりを告げてはじめて新しい価値観や世界観や倫理観が生まれます。
こころに生まれる新しい命
この世界的な困難と不幸が、私たちの心の変容のために起こっているなどど馬鹿げたことを言うつもりは毛頭ありません。そうではなくて、困難と不幸など決して起こってほしくない。けれども、それが起こってしまったら、喪失の一つ一つを、不幸の一つ一つを無駄にしないために私たちは最善を尽くしたいと思う。それを意味のあるものに変えていきたい。新しい生命へとつないでいきたい。私たちのこころに生まれる新しい命へと。
当たり前を疑え!
だから、当たり前を疑おう。この困難な状況に圧倒されてこれまでの当たり前が崩壊していくのを待つのではなく、こちらからこれまでの当たり前を積極的に疑ってみる。これまで当たり前が座っていた場所を、自分にとって本当に大切なこと、本当に尊いこと、本当にやりたいことに明け渡そう。誰か力のある人が言っているからではなく、これまでそうだったからではなく、自分の心に聞いてみよう。そうすれば、私たちの心には新しい生命が目覚めてくる。新しい価値が生まれてくる。そうした個人個人の変化の総和が、新型コロナウィルスを超えていく社会のあり様を築く礎になるのではないかと思います。
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