2つの世界とわたしの物語を探す旅
2つの世界とわたしの物語を探す旅
私たちは「自分のものだと思い込んでいる物語」にとらわれたり、縛られたりすることがあります。フツーやリソウといった世間の物語であったり、誰かに言われたり、何かに書いてあったりしたような借り物の物語であったり、あるいは、何がいけなかったのかといった原因探しの因果の物語であったり・・・。一見すべてをわかりやすく説明してくれる手軽な物語は私たちを捉えて離さない力をもっています。しかも、私たちはそういう物語に自分が捉えられているとは、はっきり意識していないことの方が多いのかもしれません。そうした物語は、私たちが自分に起こったことをなんとか心に収めて、厳しい季節を乗り越えていくために採用した物語だったかもしれません。
けれども、一方で、真に自分のものでない物語に縛られることは、とくに内的な世界のことを大事に思う人にとって、さらに生きづらさを背負うことになりかねません。これまで自分が生きてきた物語と真の「わたしの物語」のとの間のズレに、なんとなく、あるいははっきりと気づいたときに、私たちは内的な旅に出るのかもしれません。
内的な物語への旅
フツーやリソウといった世間の物語、誰かに言われたり、何かに書いてあったりしたような借り物の物語、何がいけなかったのかといった原因探しの因果の物語・・・。一見すべてをわかりやすく説明してくれて、つじつまの合うように思える物語の力は強力です。私たちがいったんその物語にとらわれてしまうと、自分の身に起ることをその文脈でしかとらえられなくなって、堂々巡りに陥りかねません。
フツーやリソウを生きようとして、どうしても埋まらないものを嘆いたり、誰かが教えてくれる手軽に手に入る物語で自分を肯定し周りの環境を嘆いたり、自分の中に見つけた原因を取り除こうとして余計に自分を苦しくしたり・・・。
厳しい季節を超えていくとき、そうした物語が、そのときには到底触れることのできなかったそのままの傷の痛みに触れることから自分を守ってくれたとしたら、それはそれで大事な役割を果たしてくれたことになります。
けれど今、真の「わたしの物語」のとの間のズレを感じ、旅に出るとしたら、その旅は日常とは違った次元の内的な物語への旅になるでしょう。内的な物語への旅といっても、夢物語の中に入ってくわけではなく、日常の現実を丁寧に生きながら、その現実の鏡に映った自分の姿に日常とは違う次元で意識的につながることが、「わたしの物語」へとつながるのではないかと思います。
自分のなかに下りていく
本来「わたしの物語」は自身の深い内的な世界とのつながりから、つまり日常とはちょっと違う次元とのつながりから生まれてくるわけですが、そうやって生まれたものじゃない物語に、私たちは縛られてしまうことがあります。
自分がそういう物語に縛られているかも?と気づくことは、他の誰かではない「わたしの物語」を見つけるための大きな一歩になるのではないかと思います。そのために私たち自身にできる最初のことは、日常の現実と、心の深い層の動きがどんなふうにつながっているかということに意識的に取り組むことではないかと思います。
と、言葉で言うのは簡単ですが、これがなかなかどうして難しいです。
私たちは普段日常的な意識が勝っているので、自分の内面にただ下りていくのは難しいものです。どうしても意識が外側に向いてしまったり、原因-結果で考えてしまったり、良い悪いとか、正しい間違っているにいってしまったりしがちです。
たとえば、「あの人が理不尽な態度をとったから、私はとてもイライラした。あんな態度さえしなければ嫌な気分にはならなかったのに。どうしてあの人はあんな態度をとったのだろう。何か私に原因でもあるのだろうか。いや、そんなはずはない。だって私は・・・」と考えてしまうのが普通です。
自分のなかに下りていく感じは、「あの人が理不尽な態度をとったから、私はとてもイライラした。あのイライラの感じはとても嫌な感じだ。胸と喉がキューっとつまるような感じで何も言えなかった。私の心はなんて言いたかったのだろう。そういえば、あんな感じは前にもあったような…。私はあの人の何をに理不尽さを感じたんだろう。・・・」
日常の意識を行ったり来たりしている感じと、自分の中に下りていこうとしている感じの違いは、こんな感じかなーと思います。
置いてきたものに再会する
自分を縛っている物語があるかもしれないと気づくことは、他の誰かではない「わたしの物語」を探す旅の始まりです。自分を縛っている物語がどのように自分を捉えたのか。日常の現実と内面の世界がどのように重なり合い、どのようにつながっているのか。
私たちには、厳しい季節を超えていくために、封印されたものがあり、分断されたものがあり、置いてきたものがあります。ほとんどぼやけてしまって本当にあるかどうかさえ定かでない、そういうものになっているかもしれません。けれども、そうやってしか超えることのできなかった季節があります。
今度はこちらから時間を超えて封印されたものに、分断されたものに、置き忘れたものに再会する旅です。起こった出来事の利害やどちらが正しいかといった日常の意識の下に下りて心の中の空気や、熱や、塊や、震えや…そういう内界の声にならない声の住処を訪ねる旅です。
物語を紡ぐ糸
起こった出来事の利害やどちらが正しいかといった日常の意識の下に下りて心の中の空気や、熱や、塊や、震えや…そういう内界の声にならない声の住処を訪ねる理由は、私たちが自分が縛られている物語になかな気づくのが難しいからです。
たとえば、物事がうまくいかなくて世界が自分のすることをまるで邪魔しているように感じるとしたら、そこに物語が隠れているかもしれません。神様に文句の一つも言いたくなるとしたら、自分が疑っていない現実に物語は隠れているかもしれないのです。
私たちは、自分を縛る物語を日常の世界に重ね合わせて経験します。その物語をほどくのは私たちの内界のまだ声にならない声です。その声に触れるとき私たちの胸を満たすのは封印されたものの叫びかもしれません。
他の誰かではない「わたしの物語」を紡ぐ糸は日常の因果の鎖ではなくて心の中の空気や、熱や、塊や、震えや…そういう内界のまだ声にならない声です。
内界の声の住人
日常の現実という鏡に映る私の姿と内界の声にならない声がどんなふうに物語を紡ぐ糸で結ばれているか。わたしの物語の糸が自分の手に確かに触れるとき、それはわたしの傷のありかが露わになるときです。何が自分の深い心にとって大きな痛みなのか、大きな葛藤なのか。内界の声の住人に敬意を払い、声にならない声に耳を澄ます。
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