内側の自然への信頼を育てる
飛ぶフラ教室は、フラワーエッセンスを通して内側の自然との関係をより豊かにしていくことを目指しています。そのために自分自身の内側の自然に耳を澄ますだけでなく、自分とは違う「他者」の内側の自然にも耳を澄ますこと、植物の声に、自然の言葉に耳を澄ますことを大切にしています。
自分の内側の自然を信頼する
耳を澄ますことによって実現したいことは、「自分の内側の自然を信頼すること」です。
飛ぶフラ教室では、フラワーエッセンスを服用して、そのときの自分の体や心の声に耳を傾けるということをよくやります。体験してもらうとわかると思いますが、これは一種の瞑想のようなもので普段の意識状態とは違う状態を経験します。少し練習すれば、普段ざわざわして波立っている自分の内側が次第に落ち着いていくようになります。
やろうとしていることは、「フラワーエッセンスを感じよう」とすることではなくて、フラワーエッセンスの影響によって自分の体や心がどのように変化するかということに意識を向ける(耳を澄ます)ことです。
同じことのように思いがちですが、実際にやってみると違うことがわかります。たとえば周囲の影響を受けて自分が安定していないと感じるようなときに、自分の内側に留まるとか、自分の中心に戻るということがありますが、それを体験的に学ぶ機会でもあります。
また、自分自身の体や心の声に耳を澄ますだけではなくて、その経験をグループで共有して、同じように他者の内側の自然にも耳を傾けます。そうすることで、お互いの内側の声の違いを認め合い、自分の内側の自然への信頼を育てます。
そして、植物の声や自然の言葉にも耳を澄ますことを大事にします。それは、内側の自然と外側の自然が響き合うときの喜びを経験してほしいからです。その経験は必ず内側の自然への信頼に育っていくと考えているからです。
内側の自然を安全に守るための器を育てる
内側の自然につながることと同じように、飛ぶフラ教室が大事にしているのが、内側の自然を安全に守るための殻というか、器が安定したものになるように自分を育てていく取り組みです。
ドングリが硬い殻に守られているように、僕らにも内側のドングリを信頼すると同時に、そのドングリを守る強さが要ります。そうでないと、ドングリは容易に傷ついてしまったり、消耗して芽吹く力を失ってしまったり・・・。
外側の殻とか、器にあたるのは、人間の場合自我の力だと思います。自我というのは、「これが私」みたいな感じかな。私はこう思う、とか、こんなふうに考えるとか、これは私の好きなものとか、これは私には関係ないとか。自分と自分以外のものを区別したり、内側と外側を区別したりして、僕らが世界を経験するときの、自立した意識の主体とでも言うのかな。
「自我」はフラワーエッセンスの世界ではあんまり人気がないかもしれませんね。「自我」のイメージがどこかで利己と結びついているのかな?できるだけ自我の介入を避けて選ぼうみたいな考えさえありますね。
けれども僕はそうは考えていなくて、自我とドングリが協力してはじめてドングリは芽吹くことができると思っています。ドングリが内に秘めている、たとえば青空に自由に枝を広げた成長した木のイメージは、その容れものとなる自我の強さがなければうまく芽吹き成長することができないし、形をなすことができません。
だから、フラワーエッセンスを選ぶときは、自分の気持や感情や行動パターンに向き合って選ぶということを中心におきます。そのうえで花や植物から受け取る印象や、飲んだときの感覚や、直感を大事にしようということです。できるだけ自分の全体でフラワーエッセンスにかかわろうということです。
そうすると、これまで気づかなかった自分の気持に気づいたり、自分には向き合いたくないことがあるとわかったり、いろいろな葛藤を経験してなかなか選べなかったり、そういうことが起こってくると思います。僕はそういう経験がとても大事だと思っています。それを避けて通るのではなくて、それを超えていくのが大事。そこをスキップするのと、越えていくのはぜんぜん違うことです。
こうした取り組みに一人で向き合うのは、たとえフラワーエッセンスが自分のために選んで使うことができるものだとしても、とても大変で難しいことです。それはいわば、内なるドラゴンに向き合って、本当はそのドラゴンが自分の味方なんだということを発見する旅だからです。
それをやるためには、やっぱり日常を離れた安全な場(器)が必要で、ドングリの殻が育つための、もっと大きな殻みたいな…。そういう信頼に支えられた場があれば、僕らは自分の殻を育てることができます。
そういう取り組みの大切さを、1年、2年と時間とエネルギーをかけて飛ぶフラ教室に通ってこられてた方たちに接していると、物凄く感じます。ドングリが芽吹く力を本当に感じます。
そういう方たちの生きる姿に触れさせてもらうこと自体、・・・そりゃー、人間だから、うまくいくときもあるし、いかないときもあります。ポジティブなときもあればネガティブなときもあります・・・いろいろあるけれども、そういう方たちが自分と自分のドングリを信頼して生きていこうとする姿を見せてもらうこと自体、僕にとっては希望です。
そして、それは他のメンバーにとっても、その人たちのまわりの人達にとっても、きっと希望であり、贈り物です。飛ぶフラ教室はそういう器になれたらいいなと思っています。それが飛ぶフラ教室が存在する意味です。
自分の人生をドングリの挑戦として振り返る
「自分の内側の自然を信頼する」ということは、「自分が持って生まれたもの」を信頼しようということです。もともともっている何かです。自分を超える自然とつながっている何か。それをここでは「種子」とか「ドングリ」と呼んでいるわけです。
フツー僕らは、これまで生きてきたことを自我の視点から振り返ります。思い通りにいかないことがあったり、うまくいかないことがあったりすると、自分に何がたりなかったのだろう?とか、何が間違っていたんだろう?とか。
でも、ちょっと考えてみてほしいのです。ドングリは僕らが生まれたときから僕らといっしょだったわけで、僕らが気にかけていないときも芽吹こうとしてチャレンジしてきたかもしれないのです。いや、きっと芽吹く努力を続けてきたでしょう。だから、これまでの道のりをドングリの側から振り返ってみたらどうだろうと思うのです。
僕らにとって、失敗だったなあと思う経験も、うまくいかないなあと思う出来事も、受け入れがたい現実も、もしかしたら一生懸命芽吹こうとしてきたドングリのチャレンジだったのかもしれない。あるいは、起こってしまった不運を、なんとか芽吹く力に変えていこうとしてきたドングリの努力だったのかもしれない。そんなふうに考えてみることもできます。
僕らは何かうまくいかないことがあると、自分の過去や環境に原因を探し出して、そこに還元したくなります。うまくいかないのは自分に何が足りないからだろうかとか、自分が育った環境に原因があるのではないかとか。幼少期の両親との関係が原因だとか・・・。
(人間は基本的に物事を因果関係で理解したいと思うし、その道筋が見えたときに安心できるので、ある程度仕方ないことだとは思いますが・・・。)
もちろん、足りないことはたくさんあるし、育った環境の影響は物凄く大きいと思います。けれども、そうやって原因を探すことが「自分の内側の自然を信頼する」という感覚や、「内側の自然を守る自我を信頼する」という感覚にはなかなかつながらないように思います。
それよりも、ドングリと自分にとってどういう意味があるのかということを考えてみるほうが、僕は好きです。自分が失敗と思ってきたことも、ドングリの挑戦だったとしたらそのときの経験にはどんな意味があるだろう。そのときのドングリと自分の経験を、今に、そして未来にいかすにはどうすればいいだろう。
他の誰かではない私にとっての、そして私と私のドングリにとっての意味。さあ、今この経験をドングリはどんなふうに芽吹く力にかえようとしているんだろう。
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