誰かの役にたっていると思えること
誰かの役に立っていると思えること
自分が、誰かの役に立っていると思えること、
誰かの助けになっていると思えることは、
私たちが生きていく上で
とても大事なことですね。
だからこそ逆に、そうは思えないときの苦しみや痛みは
どれほどのものでしょう。
人生のなかで、その痛みを知らない人など
いないのかもしれません。
その痛みに今苦しんでおられる方も
いらっしゃるかもしれません。
「あなたが生きているということはどんなにすごいか」
ユング派の心理療法家であった河合隼雄先生は、作家の柳田邦男氏との対談本『心の深みへ―「うつ社会」脱出のために』のなかで、次のようにおっしゃっています。
この本(『犠牲 わが息子・脳死の11日』)の中で、洋二郎さんが「自分は世の中に役に立っていない」と悩む話が出てきますが、根源的なところから見れば、自分は何も役に立っていないということはありえないんですね。すっごく役に立っているんです。ただ、本人にはものすごく分かりにくいんですね。
私どものところにカウンセリングに来る方も、何もできない、何の役にも立たない人間だと悩んでいる方が多いんですけど、私はよく言うんです。ものすごい役に立ってるって。あなたが生きているということはどんなにすごいかって言うんです。そこが本人にはなかなかわからないですけどね。
この対談のなかで、河合先生は、「多くの人は自分が生きている世界の価値基準を世俗的なものに固定し過ぎている」ともおっしゃっています。そうは言われても社会的な価値で自分を見てしまうことは、誰にとっても避けられないことのようにも思います。ですから、私たちにはきっと、世俗的な物差しを越えた根源的な眼差しで自分を見てくれる人が、そして、その眼差しで自分自身を見る時間が必要なのだと思います。
助けることで、助けられる。助けてもらうことで、助けている。
こちらも河合隼雄先生の対談&共著本『臨床とことば』の中からですが、鷲田清一先生が次のようなとても興味深いエピソードを紹介していらっしゃいます。ちょっと長くなりますが、引用します。
河合隼雄氏との対談のなかでもふれたことだが、十数年前、腹部の手術のために入院したことがある。術後数日間はじぶんの身体のことで精一杯だったが、麻酔が切れたあとの痛みもぼちぼち取れてきて、やっとまわりを見る余裕がでてきた頃、ふと、あるひとりの新人ナースとおぼしき女性の不審な行動に気づいた。だれもが眠気に襲われる昼食後のひととき、白衣のその女性は、決まってわたしの前の、意識も半分途切れがちな高齢の男性のベッドにやってきて、付き添い用の椅子に腰かけ、カーテンをわずかに引き、眠りこけているそのおじいさんの布団に覆いかぶさって、ぐたーっと「お休み」をするのだった。
はじめはなんて横着なナース、なんてふてぶてしいナースだと、内心イライラするものだあった。ところがどうも様子がおかしい。ナースはぐっすり眠っているのだが、おじいさんがいつもと違うのだ。おじいさんは相当な高齢者で、食事のときも半分眠っているような覚束ないひとだったのだが、ナースが寝入ると逆に眼を見開いて廊下のほうをじっと見やるようになった。要するに見張り、この若いナースが眠っているのを見咎められないか、しっかりと廊下を監視するようになったのだ。そして、上司のナースが通りかかると、彼女の背中をぽんと叩いて起こす。おじいさんの面持ちは、ちょっとこちらが照れるくらい溌剌としてきた。
そのおじいさんは、病室ではそれまで、何から何までナースに「してもらう」生活だった。他人のために何かをするという生活からは、たぶんほどお遠い生活だった。それがだれかのために自分にできることを、その覚束ない意識のなかでそれでも見つけた。
これは大きなことである。じぶんの存在というものが他人のなかで何のポジティブな意味ももっていないということを思い知らされるのは、何歳になっても辛いことである。じぶんはいてもいなくてもどっちでもいい存在ということを思い知らされるのは。家庭でも、学校でも、職場でも。このおじいさんは、この子はじぶんがいないとだめになると、朧げな意識のなかで感じたにちがいない。そのことがこのひとの顔をいきいきとさせた。
個人的なことになりますが、僕はけっこう早くからフラワーエッセンスをやってきたので(それは世俗的な物差しの世界に生きることから逃げたとも言えますが)、教える立場になることやプラクティショナーとしてフラワーエッセンス療法に関わってきました。フラワーエッセンスと共に少しでも人の心の支えになれればと思ってやってきましたが、この二十数年を振り返って思うことは、どれほど自分が、自分のところへ来てくださった方々に支えられ、助けられてきたかということです。
好きなことで、役に立っている
だからこそ、好きなことで、
誰かの役に立っていると実感できることは
どれほど自分が満たされる経験となるでしょうか。
叶うなら誰もがそれを望んでいると思います。
それを叶える手段は
仕事である必要はないと思います。
「好き」で、誰かの役に立つ。
は、すべての人に開かれた扉です。
ただし、それにかかわるとき、
私たちは世俗的な物差しを
緩める必要があるようです。
フラワーエッセンスで誰かの役に立つ
「フラワーエッセンスで誰かの役に立ちたい」
と思われたことはありませんか。
バッチ医師は、亡くなる2か月ほど前の誕生日(9/24)に、ウォリンフォードで一般向けの講演を行っています。そのなかで次のように述べています。
ですから、このハーブ療法は、人々の苦痛を和らげたいという夢や理想を持ち続けてきた人にとって、それが家庭の中だけであろうと、より広い範囲であろうと、夢がかなえられるようになったとことを意味するのです。
エドワード・バッチ『エドワードバッチ著作集』p.19
フラワーエッセンスが助けになったと思う人にとって
自分を通して誰かの心に
フラワーエッセンスが届いたと
実感できることは大きな喜びです。
自分を通して誰かの心に
花の種を届けられたかもしれないと
感じることができるのは、
他には代えられない喜びがあります。
種はやがて芽吹いて成長し花を咲かせ
また種をつくって
誰かの心に届くことでしょう。
そのような自然の営みが
私たちの心と心のつながりの中にも
確かに息づいていると思います。
届けたい人はいますか?
フラワーエッセンスを届けたい人はいますか?
誰に届けたいですか?
ご家族の誰かに?
友人の一人に?
子どもたちに?
動物たちに?
自分が助けられたと同じように
フラワーエッセンスを必要としている人に?
「誰に届けたいのか?」は、このところ僕が自分に問いかけている問いです。これまでも何度も自分に問うてきた問いです。この問いに向き合えば向き合うほど、自分自身が見えてきます。ここでも、誰かの役に立とうとすることが、自分自身を助けています。世界は不思議ですね。
自分自身を知りたいと望むなら
ルドルフ・シュタイナー
そのまわりにある世界を見よ
世界を知りたいと望むなら
自らの魂を探れ
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以前の講座「フラワーエッセンスを手渡す」をバージョンアップした「心にフラワーエッセンスを届ける」ワークショップを企画中です。近日受付開始予定です。
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