フラワーエッセンス療法の会で、ミヒャエル・エンデの『モモ』を読む読書会を開いています。
先日、第5章を読みました。
「おおぜいのための物語と、ひとりだけのための物語」。
ジジとモモの、物語の章です。
モモは、人の話を聞くのがとても上手な女の子。
ジジは、そのモモの友だちで、
話しはじめると止まらない若者です。
ジジは、モモに聞いてもらうと、
物語が次から次へと浮かんでくる。
なかでも楽しみにしていたのは、
モモにだけ聞いてもらうときでした。
そのとき語られるのは、たいてい、おとぎ話。
そしてそのおとぎ話の中には、
ジジとモモが出てきます。
むかし、むかし、モモという名のうつくしいお姫さまがありました。高い高い雪山のいただきにそびえる、色とりどりのガラスのお城にすみ、いつも絹とびろうどのきものを着てくらしていました。
読みながら、
この「ひとりだけのための物語」は、
ジジのどこから湧いてくるのだろう、と思いました。
頭の中を流れている物語
わたしたちの頭の中には、
いつも考えが流れています。
「あの人は、いつもそうだ」
「どうしてあんなことを言ってしまったんだろう」
「また失敗するんじゃないか」
何かつらいことや不安なことがあると、
頭の中でその場面を何度もくり返し、
答えを探しつづけてしまう。
それは、悪いことではありません。
胸がきゅっとなる。
体に緊張が走る。
パニックになる。
そういう苦痛を、もろに感じつづけるのは、とてもつらい。
つらさを少しでもやわらげようと、
自分が納得できる理由を考える。
そうやって、わたしたちは自分を守っているのだと思います。
頭の中は、苦痛から身を守るための
避難所でもあります。
けれども、避難所にいる時間が長くなると、
同じ考えが何度もくり返されるうちに、
それは、ひとつの物語のようになっていきます。
そこでくり返されてきた物語が、
いつのまにか、自分自身のように思えてきます。
「わたしは、こういう人間だ」
「わたしは、人付き合いが苦手だ」
「わたしは、いつもうまくいかない」
自分を納得させようとして考えたことが、
わたしの物語になって、
今度は、自分を縛るようになる。
そこでわたしたちは、
悪い物語を、良い物語に置き換えようとします。
けれども、それだけでは、なかなかうまくいきません。
置き換えたつもりでも、
気がつくと、また同じ物語の中にいる。
もともとある物語
頭の中の物語の奥には、
もうひとつ、別の物語があるように思います。
それは、頭でつくったものではなくて、
もともとあるものです。
ふだんは、頭の中の物語が騒がしくて、
聞こえてこない。
その物語が湧いてくるのは、
避難する必要も、身を守る必要もない、
自分を開いていい——
そう感じられたときではないでしょうか。
モモがジジにしていたのは、
評価することでも、助言することでもなく、
ただ聞くことでした。
共に感じてくれる相手の前では、
避難所にこもっている必要はありません。
だからこそ、ジジの中から、
もともとそこにあった物語が湧いてきたのではないでしょうか。
頭の中の物語は、過去が何度もくり返される。
そこでは、時間が止まったまま。
奥から湧いてくる物語は、
いま、目の前の相手との間で生まれてきます。
こちらの時間は、生きています。
植物の前で
避難する必要も、身を守る必要もない。
そう感じられる相手は、人だけではないように思います。
わたしにとって、それは植物でした。
植物は、わたしたちを評価しません。
こうしたほうがいい、と助言することもありません。
ただ、そこで咲いて、枯れて、種になって、また芽吹いて……
植物は、決して自然から外れることがありません。
おとぎ話のように普遍的な物語を、
植物は生きているのかもしれません。
その前では、
頭の中の物語を持ち出す必要がありません。
自分が、自分のモモになる
植物の前で、頭の中の騒がしさがおさまってくると、
自分の中にも、ただ聞いてくれる場所があることに気づきます。
不安な物語が頭の中で動き出したとき、
「ああ、こんなに怖がっている自分がいるんだ」と、
そのままの自分に耳を傾ける。
怖がっていてはいけない、と打ち消すのでも、
早く直そう、変えようとするのでもなく、
怖がっている自分を、そのまま見る。
それは、自分自身に心を開くこと、
自分に共感することでもあるのだと思います。
自分が、自分のモモになる、ということかもしれません。
あなたにとって、モモのような存在は思いあたりますか。
それは誰でしょう。
あるいは、何でしょう。
出典
- ミヒャエル・エンデ著、大島かおり訳『モモ』岩波書店、1976年、p.65
















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