その人の心に起きている現象を共に「経験」する
その人の心に起きている現象を共に「経験」する
NHK Eテレ100分de名著「河合隼雄スペシャル」のテキストの河合俊雄先生の解説より。
クライエントの心を縛りつける「Why」の鎖を共に辿り、その人を揺り動かしている情動がおさまって心のバランスを取り戻していく過程を”共に歩む”のがセラピスト(心理療法家)の本領です。クライエントの問いや悩みに「解答」を与えるのではなく、「解決」へと至る道を一緒に探る。高名なセラピストに相談すれば、原因をたちまち見抜いて、どうすればよいかを”教えてくれる”と思っている人がいるかもしれませんが、そうではないのです。
解決に至る道をクライエントと共に探し、歩んでいくには、相手を客観的に「観察」するのではなく、主体的に関わり、その人の心に起きている現象を共に「経験」する必要があります。そのためには、セラピストが「十分に心を開いた聞き方」をすることが肝要であり、それはクライエントの心の現象の「なかにいる」ということでもあると著者はいいます。
客観的な見方が不要だというわけではなく、客観的な見方だけでは人のなかの「内なる癒し手」の目覚めを手助けすることにはあまり役立たないということだと思います。「人のなかの種子が芽吹く」のを援助しようとするときには、その人の心に起きている現象を共に「経験」するというような態度やあり方を自分の真ん中に据えておくしかないと思います。
ゲーテ的な自然観察のアプローチとの共通点
人の心に起きている現象を共に経験しようとする態度は、人が癒えることを可能にする場を提供しようとする人たちにとって、基本的な態度ではないかと思います。
それは、状況を客観的に判断して、外側からその人の問いや悩みに正解を与えようとする態度とは違って、その人の心の世界に起こっていることの「中に」自分を置こうとすることだと言えます。
この心のあり方は、ゲーテ的な自然観察のアプローチを用いて植物に向き合う時の態度と物凄く似ていると思います。それは、先入観や主観を脇に置くことによって、自分の理解の枠の中で植物を見ようとするのをやめることです。
私たちは日常、いろいろなものを自分の理解の枠の中にどう収めるかということをやっているので、この態度がいかに普段の態度と異なる心の状態かということがわかります。
言い換えると、自分の世界の枠から出て、植物に意識を添わせること。植物が経験している形や色をそのままたどり、それを共に経験すること。
それによって私たちははじめて、すでに知っている植物ではなく、現に目の前にある植物そのものに出会うことができます。
まったく同じように、自分の世界を出て人の心の世界に起こっていることに意識を添わせ、それを共に経験するとき、外から理解しているその人ではなく、その人の内的世界に内側から触れさせてもらうことができます。
そのようなつながりをもった場は、人の中に眠る可能性や希望の種子の養分となり、芽吹く力の土壌になるのだと思います。
「共に歩む」苦しさから逃げて、何かしてしまう
セラピストの本領は「共に歩む」ことにあると河合隼雄先生はおっしゃっていたわけですが、セラピストでなくても、人の心に向き合うことを仕事とする人には、基本的態度として「共に歩む」姿勢が求められると思うのです。
ですが、これは口で言うほど簡単なことではないですね。というか、物凄く難しい。相当な訓練が要ります。
僕らは「十分に心を開いた聞き方」をすればするほど、「何かしてあげたく」なります。何かしてあげたくなる気持ち自体はとても自然で大事なことですが、僕らは大抵「共に歩む」ことから離れて、というか「共に歩む」苦しさから逃げて、何かしてしまうことが多いと思います。
たとえば、その人の悩みや苦しみが少しでも軽くなってほしいと思うばかりに、その人の体験と共にいることができなくて励ましてしまったり、その人の問いや悩みを自分の経験と照らしあわせてわかった気になったり、それで「自分の」解答を披露してしまったり…ということをしがちです。
それがすべて悪いと言いたいわけではありません。いいか悪いかはそれぞれのケースで判断されることだと思います。けれども、このようなことは基本的態度として「共に歩む」のとはちょっと違います。その人の心に起きている現象を共に「経験」する態度からは離れてしまいます。
河合先生はこんなこともおっしゃっています。
学校に行けない子が)「行けなかった」と言ったとき、
河合隼雄、小川洋子 『生きることは自分の物語をつくること』
「でも行けるよ」って言ったら、
行けなかった悲しみを僕は受け止めてないことになる。
ごまかそうとしている。
「そうか」と言って一緒に苦しんでいるんやけど、
望みは失っていない。
望みを失わずにピッタリ傍におれたら、
もう完璧なんです。
それがどんなに難しいか。
学校に行けない子が「学校に行けない」という気持ちを表明した時に、「大丈夫だよ、行けるようになるよ」と応じてしまったら、こちらがその子の気持ちを受け止めてない。「ピッタリ傍にいる」ことにはならない。その子の心に起きている現象を共に経験していないと。
その子の心に起きている苦しい気持ち、学校にいくのがどんなに困難かという気持ちにピッタリ寄り添って、それを一緒に感じ、その苦しさに直面してゆく強さがこちら側にないと、僕らはごまかして何か別のことをしてしまう。「共に歩む」ことから簡単に外れてしまう。
人の心に寄り添って援助することにかかわる人にとって、自分の心に向き合うことが不可欠な理由の一つはここにあると思います。こちら側の答えや理想を脇に置いて、時にはそれまで身につけたすべての武器を床に置いて、その人がその人自身の物語を紡ぐのを「共に歩む」のは、本当に難しいことだと思います。
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