相手を自分の理解の枠の中に収めようとしない
「重ねて見ていたイメージが
頭や心からハラハラと落ちていく」
というのは、
植物を観察していて、
どんなに小さなことでも
自分で発見したときの
あの「あっ!」という体験のときに
起こっていることです。
たとえば、今の季節に
ホーンビームの木を観察に行ったとしたら、
幹に触れてその硬さを実感するでしょう。
そして、春になって再び訪れたときに、
その若葉に触れて、
「幹の硬さに比べて、
その若葉のなんと柔らかでみずみずしいことか」と
感動するでしょう。
きっと、若葉が指に触れた瞬間に、
自然に「あっ!」とか、「わっ!」とか
声をあげてしまうかもしれません。
植物に会いに行くことを続けていると、
そういう植物のさまざまな姿に出会い、
少しずつその植物の全体像を
知ることができます。
同時に自分が
どれほど自分の世界の中だけで
勝手なイメージを
作り上げてしまうのかもわかります。
植物についての小さな発見は
それが見事に消えていく瞬間です。
そして、このときの感覚は
人の思いがけない一面に
触れたときの感覚にも
共通するんじゃないかと思うのです。
「この人にはこんな一面があるんだ」とか、
「この人がこんなふうに考えていてくれたんだ」とか、
「そういう経験があったから、
この人はそういうふうに表現せざるを得ないんだ」とか。
もし、僕らが自分の理解の枠に収めようとすることを
少しのあいだ脇に置いて、
相手を
自分とは住んでいる世界も価値観も違う
「他者」として見ることができれば、
その人のそれまで見えなかった輝きや可能性を
もっと見ることができるんじゃないかと思います。
僕らは、一つの季節のその人だけを見て、
他の季節のその人の姿を
わかった気になってしまいがちです。
自分の思い込みや思い入れで描いたイメージが、
もちろん自分では思い込みだなんて思ってはいませんが、
それが崩れて、その人の違った一面に出会うとき。
神田橋先生はそれが「共感」だとおっしゃっていますね。(*1)
僕らは、フツーの人間関係では、
相手を自分の理解の枠の中に収めようとします。
収まったときに理解できたと思うし、
「共感」できたと感じがちです。
けれども、共感は
自分の世界を出て
この手の指で若葉にふれるように
相手の世界に、
触れさせてもらったと
感じるときのことなんじゃないかと思います。
だから、植物に会いに行って、
意識的に
植物のいろいろな姿に触れることで
経験する発見のよろこびは、
自分の世界を出て
他者としての相手の世界に
触れることのよろこびなのだと思います。
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*1:「真の共感が生まれるのは、「思い入れ・思い込み」が描き出した固定したイメージが、なんらかの契機で崩壊して、思いがけない視界がひらけたときです、治療者の体験としては「眼からうろこが落ちた」であり、クライアントの体験としては「通じた」であり、関係の言葉でいうと「出会い」なのです。だからこそ、共感は精神療法でもっとも重要な現象なのです。」(『対話精神療法の初心者への手引き』神田橋條治)
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