読書会「第1章:コンステレーション」を振り返る

2024年1月11日

こころの最終講義』の読書会の第1回を振り返ってみました。

言語連想テストの反応時間が遅れる現象に注目して、無意識のなかに感情によって色づけされた複雑に絡み合ったしこりのようなもの「コンプレックス」ができているんだ。それが現象として出ているんだということを、ユングは「コンプレックスがコンステレートしている」という言い方で表現しました。しかし、その後ユングはそういう個人的な心のしこりのもっと深層にその元になるような元型を想定するようになり、「元型がコンステレートしている」ということを言うようになります。

1950年代になると元型の論文のなかに、「共時性」という言葉が出てきます。ユングは、因果的に説明不能だが、共時的に起こる現象というのがあると、どうしても思わざるを得ない、そしてそこに非常に大きい意味があると言っています。UFOの論文では、UFOが実在するかどうかを問題にするのではなく、非常にたくさんの人がUFOを見たといっているということは、非常に大事な元型的なものがみんなの心にコンステレートしているからだと。そして、そのような心の底で動いている元型的なものを理解することが文化や時代を理解することに役立つというわけです。

コンステレートという言葉が他動詞で使われる場面に遭遇して、河合先生は驚かれるわけですが、それは河合先生が分析を受けておられたマイヤー先生についての論文のなかで、マイヤー先生は「自己実現の過程をコンステレートする」。そして、その人が自己実現の過程を歩む限り、その人に共についていく。というもので、河合先生は衝撃を受けられました。

その後には1965年からの河合先生の日本での仕事について書かれていました。まず、「先生は易を信じますか?!」と言われて跳び込んで来られた在日韓国人の方の事例。ユングのUFOの論文と同じように、易を信じるかどうかということではなくて、易の「高みに上がるものは落ちる」というイメージによって、それほどまでに情動が動くというのは、その人の情動の下に何がコンステレートしているのだろうという態度で話を聞いていくということでした。

そして、ユング研究所から日本に帰ってこられた当時の河合先生ご自身の体験として、祝いの席でお母様ののどに魚の骨が刺さったことや、タクシーに乗るときにお母様の手を詰めそうになったことが、何か「母なるもの」に攻撃的なことが行われようとしていて、ご自身がそのなかにいるのではないかと考えられたという話でした。その後の不登校の子どもさんが報告された、肉の渦のなかに巻きこまれて叫び声をあげて目が覚めるという夢などから、母なるものの元型に大きな影響を受けている日本社会に帰ってきて、そのなかで自分はどう生きるか、心理療法家として何ができるかと問われていると考えられ、そのことに向き合って行かれるわけですね。

コンステレーションという考え方がどんな意義をもっているか。それは意味を見出すことだとおっしゃっています。たとえば易の事例では、易が正しいか間違っているかといった議論ではなくて、易のイメージを知って不安に感じた自分にとっての意味は何かということです。不登校の中学生に河合先生が会っている意味は、単に学校へ行かない子どもが行くようになるということではなくて、その背後にある母なるものと関連で意味を見出すことができると、中学生も母なるものと格闘している。河合先生も日本社会の母なるものと格闘されている。格闘のレベルや質は違うかもしれないけれども、中学生に会っている意味がはっきりとします。

そして、コンステレーションという考え方は、因果的な考え方を補うことができます。因果的な考え方の場合、自分は事象の外側、つまり安全なところにいて、ボタン押しをやりたい。操作したい、操作できると思ってしまう。それは機能的で効率的な考え方で、便利な社会を生み出していますが、それを家庭でもやろうとするところに誤りがあるのではないかとおっしゃています。実際には自分が事象の外側にいるなんてことはなくて、自分も含めた全体がお互いに関係をもっている世界に私たちは生きています。ですから、コンステレーションという考え方をすると、全人的なかかわりをしたくなります。私はどういきるのかということが問われます。

言い換えると、その人の個性がかかわってくるというわけです。そう考えるとマイヤー先生のように自己実現が起こりやすい状況をコンステレートするといったこともできるのではないか。ここで最初に書かれているのは「開かれた態度」です。何事が起ころうと大丈夫という開かれた態度。

そして、もっともコンステレートしやすい状況は、「余計なことをしない」こと。そのときに、「心は全面的にかかわっていかなくちゃならない」。「私が心から切れてしまって、この人の中に何がコンステレートしているだろうという見方をしても、絶対にこれは通じません」とおっしゃっています。長新太さんの絵本「ブタヤマさんたら、ブタヤマさん」を取り上げて、気配を読み取ることの大事さについても触れられました。

そして、最後にコンステレーションは時間に展開されると物語になるということでした。ユングが精神的危機を乗り越えたときに描いた曼荼羅や、箱庭療法の箱庭のイメージを見ると、心のなかにお話しが生まれてきます。コンステレーションはまさに共時的な一瞬のイメージかもしれませんが、それを物語ることによって伝えることができます。私たちの人生もこの一瞬に過去も未来もすべてが入っているかもしれない。そしてそれは物語ることができる。河合先生が心理療法の仕事を通してしておられることは、来られた方が自分の物語を見出していかれるのを助けることではないかと。そして、今後の仕事として、日本の神話を以下に物語るかということをやっていきたいと結ばれています。


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読書会

Posted by takahara.daisuke