「いばら姫」の物語と心の中で起こること

2024年1月12日

物語や神話と私たちの心の中で起こること

昔話や神話を、私たちの内面で起こっていることと重ねあわせて考えてみると、とても意味深く示唆的であることがあります。それらの物語や神々は、いわば私たちが心の深層である程度普遍的に共有しているイメージといえるでしょう。だからこそ、そうした物語や神話は私たちの心深くに響いてくるのでしょう。

「いばら姫」の物語を河合隼雄先生の解説を参考にしながら、私たちの心のなかで起こっていることとして考えてみると何が見えてくるでしょう。

物語や神話と私たちの心の中で起こること

新しい可能性と無意識からやってくるもの

新しい可能性と無意識からやってくるもの

子どもがほしいと望んでいた王さまとお妃さまは自分自身の「新しい可能性」を求める私たちの心だと考えてみるとどうでしょう。それは誰の心にも起こっていることだとは思いませんか。

ある日お妃さまのところにカエルがやってきて、お姫さまが授けられると予言します。カエルは両生類です。水の中と陸上を行き来します。水は感情や無意識の象徴とされていますから、カエルは私たちの無意識からやってきて意識へと向かう何かかもしれません。

無意識からやってくるものを私たちは最初「影」として認識するわけですが、カエルのぴちゃぴちゃと寄ってくる感じは、影が忍び寄ってくるときの怖さというか、いやな感じ、不気味さを見事に表しているかもしれませんね。

このカエルの不気味さと生まれてきたお姫さまの美しさの対比はとても印象的です。私たちの心の中でも同じようなことが起こりうるように思います。たとえば夢の中で最初は不気味で得体のしれないものとして登場した存在が、心の変化にともなって次第に形や振る舞いを変え、美しい存在として現れることがあります。

母なるものからの自立

母なるものからの自立

この物語の背景にはグレートマザーからの自立(母親、または母なるものからの心理的自立)というテーマもあると思うのですが、その母性の否定的な面を象徴するのが、「招かれなかった13人目の仙女」ということになるでしょう。

それは個人的なものというよりは、普遍的なものと考えてもいいように思います。母性(グレートマザーのアーキタイプ)は産み出し、包み込み、育む面と、すべてを包み込み、呑み込み死に至らしめる面とを根源的にもっています。

これはフラワーエッセンスでいうとチコリのテーマと重なるところがありますね。チコリの否定的な面が強くなりすぎると、子どもの精神的な自立はむずかしくなり、子どもは精神的な死を経験するかもしれません。ただし、これは個人的な母と子の問題にだけ帰することのできないことです。

それこそ個人の力を超える運命的なものが強くはたらいていることもあると思います。自分は呪われているのだろうか、罰をうけているのだろうか、これが自分の運命なのだろうかと考えることは、それほど特別なことではなく、長きにわたってことがうまく運ばないときには誰の心に浮かんでもおかしくないことでしょう。それはひょっとしたら、「招かれなかった13人目の仙女」の呪いのように、私たちに作用しているのかもしてません。

招かれなかった仙女によって贈られた「死」

招かれなかったことへの復讐として13人目の仙女によって贈られる「死」。善良な12の仙女と悪しき1人の仙女。けれども、物語はこの悪しき仙女の行為によって展開していきます。悪しき仙女の呪いによって物語は生きてゆきます。

復讐によってもたらされる「死」などというと、陰惨な事件を思い浮かべますが、私たちの心の中の出来事として考えてみると、さほど特殊なことではないかもしれません。何かをきっかけに復讐心を抱くことは誰にでもあることでしょうし、そのことによって心の中の居場所を失った人や物もあるのではないでしょうか。

そして、自分自身が受け入れがたい自分に対しても、私たちは心の中で死や眠りを贈っていることがあるのかもしれません。私たちの心の中に誰かへの復讐心がわいてきたときなど、それをよく吟味することもなく、打ち消したり、感じないようにしたりしていないでしょうか。

ワイルドローズ(2015/2/1)
ワイルドローズ(2015/2/1)

招かれなかった仙女によって贈られた「死」は、12番目の仙女によって「百年の眠り」に変えられます。物語のなかでは、いまの呪いをとりけすわけにはいかず、せいぜいかるくすることができるだけでしたのでこう申しました。「お姫さまはほんとうに死ぬのではありません。百年の間ぐっすり眠りこんでおいでになることでしょう。」と語られています。

死と再生の内的な物語

確かに「いまの呪いをとくわけには」いかないような運命を私たちは背負うことがあります。もちろん、それを個人の責任に帰すことのできる場合もあるでしょう。たとえば13番目の仙女を招くことを怠ったのは、王さまとお妃さまの責任だと言えなくもないわけです。しかし、「いばら姫」の類話では、最初から招かれなかった仙女という主題自体がなく、眠ることが運命的に決まっているものもあります。それを考え合わせると、必ずしも個人の対応が原因だとは言えないこともあると思います。「とくわけにいかない呪い」を私たちは背負うことがあると思うのです。

そうした運命を生きる人に私たちができるのはどんなことでしょうか。フラワーエッセンスができることはなんでしょうか。

十五歳になった日に「つむに刺される」という仙女の予言通りの出来事によって百年の眠りにつくことになった「いばら姫」を、河合隼雄先生は女性の思春期の発達と関連付けて、「案外すべての正常な女性の心理的発達の過程を描いているのかもしれぬと思われる。十五歳になったとき、すべての女性は一度死ぬと考えてもおかしくはあるまい」と述べています。(河合隼雄「昔話の深層」 1994 162p)それは少女から結婚の可能な乙女への変身のための死と再生の内的な物語です。

ご興味のある方はぜひ直接本を読んでいただくとして、僕は別の内的な物語の可能性を考えてみたいと思います。一度死んで生まれ変わるという主題を、たましいと自我の関係から考えてみると、私たちの内的な物語とどんなふうに重なるかということを考えてみましょう。

砂の中に埋めた希望や望みの種子

私たちは様々な環境に生まれてくるわけですが、その環境は自我の力で選んだり変えたりすることができませんから、持って生まれた魂の個性を生まれてきた環境でのびのびと発揮できるかといえば、そうではない場合が多いのではないでしょうか。

この世界にやってきたときに私たちの胸を満たしていた、たましいの希望や望みは、生まれてきた環境が期待し要求する役割や、容易に越えることの難しい困難に出会って、思春期を迎えるころに社会で一応大人として機能するために、たましいの希望や望みをそのままもっていることの痛みや苦しみを経験すると思うのです。

たましいの希望や望みを実現するにはまだ未熟な私たちは、なんとか携えてきた宝物が粉々にならないように砂の中に埋めて守るのが精いっぱいなのかもしれません。そうやってなんとか乗り越えた私たちは、今度は砂の中に自分の魂の大切なものを埋めてあるんだとなかなか思い出すことが難しくなります。守るためには深く埋める必要がありますし、思い出せば同時に痛みや落胆も感じるでしょうから、できるだけ深く埋めておく必要があります。

「いばら姫」の百年の眠りは、砂に埋められた私たちのたましいの希望や望みとしても、捉えてみることができるのではないかと思います。たましいの希望や望みを実現するためには自我の強さが必要です。歩いてきた道がどんなに曲がりくねっていても、その道が必ず私たちに必要な強さを与えてくれます。その道が曲がりくねっていて間違っていたのではないかと思えたとしても、それは間違っていたからではなく、砂の中に深く埋めたたましいの希望や望みの種子に芽吹く力を与えてくれる季節なのだと思うのです。

時が満ちる

時が満ちるのは、曲がりくねった道を、欠けている何かを補おうとする自我の戦いの視点からよりも、たましいの希望や望みを生きるのに必要な強さと知恵を与えてくれた季節なのだと知ることができたとき、いばらはひとりでに左右にわかれ、傷を負うことなくいばら姫のところにたどり着けるのではないでしょうか。

王子さまのキスでいばら姫が目覚めたとき、初対面のはずなのに、「しんからなつかしそうに王子さまを見つめた」り、「あなたでしたの?王子さま、ずいぶんお待ちしましたわ」と声をかけたりした理由を、たましいと自我の再開として捉えてみることができると思います。

エドワード・バッチはその物語の道しるべとして、フラワーレメディーを世に送りだしてくれたのだと思います。

曲がりくねった道は、欠けている何かを補おうとする戦いというよりも、たましいの希望や望みを生きるのに必要な強さと知恵を与えてくれる季節・・・。そして、私たちには美しい花と響き合うことができるたましいがあり、そこから生きることができると、フラワーエッセンスは教えてくれます。


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