外側の闇と内側の光

2023年12月22日

外側の闇と内側の光(1)…自然の営みと私たちの内面

冬至・・・光の再誕

秋が深まり冬に向かうにつれて、
昼の時間はだんだん短くなり、
やがて冬至を迎えて
自然界の光はもっとも弱まります。

冬至は一年で
最も闇の時間の長い日です。

同時に、この日を境に
光が再び輝きを
増していきます。

古くから太陽信仰の国では、
冬至を光の再誕の日、
生命の誕生の日とみなして、
この日を祝う儀式や催しが
行われてきました。

自然界の営みと内的な経験

現代に生きる私たちは、
自然界の営みと内面とを
切り離して経験していますが、
古代の人々にとっては
それらが分かちがたく
結びついたもの
だったのではないかと思います。

たとえば、私たちは
昇る朝日を見て
神聖な気持ちを経験します。

そう、元旦のご来光って
「ご来光を拝む」っていいますからね。

けれども、昇る朝日を
「神」そのものだとは思いません。

一応太陽についての
知識をもっているので、
昇る朝日と神聖な気持ちを
分けて考えることができます。

自然界の営みと
内面の経験を分けて
受け取ります。

そのような知識、
そのようなっていうのは、
対象を自分から
切り離すことで得られる
客観的な知識のことですが、
そういう知識によって
私たち現代人が得たものは
数限りないと思います。

しかし、一方で
失ったものも
決して無視できないと
思います。

外側の自然と内側の自然のつながり

それは「外側の自然と
内側の自然のつながり」
とでも言えるでしょうか。

外側の自然と内側の自然が
つながっていることを
リアルに感じられることは、
人間とって
幸せなことではないかと思います。

フラワーエッセンスと、
植物から学ぶことは、
そういう人間にとって
とても大切で豊かな
内と外のつながりを
回復するときの喜びです。

セイヨウヒイラギ(ホリー)とサートゥルナーリア祭(農神祭)、そして冬至

クリスマスツリーに
セイヨウヒイラギが飾られるのは、
古くからの冬至の祝いの伝統が
引き継がれてるってご存知ですか。

赤い実をつける棘のある葉っぱの、
あの植物です。

そして、セイヨウヒイラギは
フラワーエッセンスのホリー
つくられる植物でもあります。

古代ローマでは
もともとこの時期(12/17-23)に、
サートゥルナーリア祭(農神祭)
というお祭りが
盛大に催されていたそうです。

このお祭りは、
ローマ神話に登場する
農耕をつかさどる神、
サートゥルヌス神に
因んだものです。

英語ではサターン、
サートゥルヌス(Saturnus)は
ラテン語で「種を蒔く」
という意味をもつらしいです。

それで、盛大に行われた
このお祭りでは、
普段の社会秩序を
逸脱するようなことも許されて、
少なくとも表面上は
奴隷と主人の立場を入れ替えて
振舞ったりすることも
許されたようです。

死と再生の象徴

そしてこのお祭りが終わると
冬至です。

太陽の復活、
光の再誕を祝う日と
なるわけです。

サートゥルナーリア祭では、
人々は太陽の復活の日(冬至)を
迎えるにあたって、
ローソクや贈り物と共に、
セイヨウヒイラギ(ホリー)の小枝を
贈り合ったといわれています。

このような伝統を
後にキリスト教会が
キリストの誕生日として
祝うことにしたのが
クリスマスの始まりではないかと
いわれています。

ちなみに12月25日が
イエス・キリストの誕生日だという
記録は残っていないようです。

また、ケルトの人々は
死と再生の象徴として
セイヨウヒイラギを崇拝し、
冬至にはセイヨウヒイラギを
飾ったと言われています。

エドワード・バッチのケルトの祖先は冬至に家を、キヅタ、ヤドリギとホリーで飾った。

メヒトヒルト・シェファー、ヴォルフ=ディーター・シュトルル著『魂の植物』フレグランスジャーナル社 198p

冬至は昼間がもっとも短い日、
もっとも闇に近い日。

そして同時にこの日を境に
再び光が輝きを
増していく日です。

それは新しい光の誕生であり、
死と再生の象徴でもあります。

もっとも暗い季節に、内側の光を想う

私たちは、外側の自然の周期やリズムから
ある程度離れて
生きていくことができますが、
それから離れれ過ぎると
大事なものを見失うのではないか
と思います。

なぜなら私たちの内側も、
外側と同じ「自然」によって
成り立っているからです。

外側の自然に季節があるように、
内側の自然にも季節があります

心が冬の時期を迎えることもあるし、
暗闇を経験することもあります。

日々生活していく中で、
私たちの内面では
小さな死と再生が、
そして時には大きな死と再生が
展開しています。

自分の中で
新しい可能性が
芽吹いてくるとき、
それは古い自分が
死を迎えざるを得ないような
タイミングでもあります。

内側の自然にも
そのような季節が
やってくることがあります。

そのときには、
外側の自然から
決して離れることのない
植物の知恵が助けてくれます

植物から直接学ぶことも
たくさんあります。
フラワーエッセンスという形で
受け取ることもできます。

外側の自然が
もっとも暗いこの季節に、
ここまでの道程を照らしてくれた
自分の内側の光に感謝し、
対話する時間を
もってみるのはどうでしょう。

クリスマスに
セイヨウヒイラギ(ホリー)が飾られるのは、
古くからの冬至の祝いの伝統が
引き継がれてることを書きました。

冬至は、新しい光のサイクルの始まり、
そして「死と再生」の象徴として、
古代の人々にとって
現代人が想像するよりもはるかに
重要な意味をもっていたと思われます。

そのときに人々と
共にしてきた植物が
セイヨウヒイラギだったわけです。

冬至にしても、
クリスマスにしても、
内側の光を称える神聖な時です。

その神聖な時間の中で
心を満たすものが
ホリーという植物によって
象徴されるからこそ、
古くからの伝統として
受け継がれてきた
ということだと思います。

ですから、
ホリーのフラワーエッセンスも
私たちの心の神聖な領域に
関連しています。

ホリーのフラワーエッセンス

人の心の中の神聖で、
温かくて、
純粋で、
繊細で、
懐かしくて、
自由な領域、
そこから流れるエネルギーで
つながるとき、
他者のことを我がこととして
感じることができる…。

ホリーのフラワーエッセンスは、
そういう心が
自分の中にも確かにあって、
そこから人とつながりたい
という気持ちを
思い出させてくれるエッセンスです。

そうじゃない時って
どういう時でしょう。
それはホリーが力を
貸してくれるときです。

孤立しているように感じ、
自分だけ疎外されているように感じて
心を閉ざしているとき。

心がカサカサしていたり、
ささくれ立っているようなとき。

「あいつらはいいよなー。
それに比べて…」とか、
「あの人たち気にくわない」と、
恨みがましく思ったり、
嫉妬したり、
「今に見てろ」とか
「ざまあみろ」とか
やたらと敵対心を感じたり、
復讐してやるモードに
入っていたりするとき。

このところ、社会問題として
クローズアップされている
「あおり運転」もそんな心が
関係しているように思います。

もちろん、その心を
そのまま行動にうつす人は
少ないかもしれませんが、
人の振舞いを
敵意と捉えてしまったり、
ちょっと仕返ししたくなったり
するような心の動きは、
忙しい日常を送っていると
誰にでもあると思います。

そんなときは、
古代ローマの人々のように、
ホリーの小枝を
贈り合うかのが
いいかもしれませんね。

神聖で、
温かくて、
純粋で、
繊細で、
懐かしくて、
自由な心で
つながるために。

ホリーと内面の闇と光

といっても、
ホリーの小枝は
なかなか手に入らないので、
ホリーのフラワーエッセンスを
自分に贈るのも
いいんじゃないかと思います。

明日は冬至ですね。
外側の世界で
闇がもっとも深くなり、
そこから再び
新しい光のサイクルが始まる日。

新たな光のサイクルにあわせて、
心の闇を照らしてくれる
ホリーのエッセンスと
一緒に過ごしてみるのはどうでしょう。

この季節を、
神聖で、
温かくて、
純粋で、
繊細で、
懐かしくて、
自由な心から流れる
エネルギーでつながりたいと
思い出させてくれる
ホリーのエッセンスと
一緒に過ごしてみるのはどうでしょう。

「周囲の人の影響や考えに過敏」というカテゴリー

ホリーのフラワーエッセンスは、
エドワード・バッチが
亡くなる前年につくった
後半の19のエッセンスの中の1つで、
「周囲の人の影響や考えに過敏」
というカテゴリーに分類されています。

「周囲の人の影響や考えに過敏」
ということは、
周りの人に過敏に反応して
影響を受けやすいということですね。

いわば、自分と人との
境界に関連するテーマです。

けれども、ホリーの場合、
境界自体のことというよりも、
心の奥にもっている暗い部分、
ネガティブな感情に
色づけされたイメージのようなものが
かかわっていると思います。

それは深いところでは
多かれ少なかれ誰もがもっている
「傷」(傷ついた内面の子ども)にも
つながる部分です。

境界自体はある程度安定していても、
心の中のその部分が不安定だと、
外の世界で起こる特定の何かに
過敏に反応してしまいます。

だからこそエドワード・バッチは
ウォルナットのエッセンスに加えて
ホリーのエッセンスを
つくったのかもしれません。

自分だけが疎外されているような感じ…切り離された痛み

「人はうまくいっていて、
自分はうまくいっていない」

「人はたくさんもっていて、
自分は少ししかもっていない」

「人は理解されていて、
自分は理解してもらえない」

「人は愛されていて、
自分は愛されていない」

自分だけが切り離されているような、
疎外されているような感じ。

僕らの心の奥にある
傷つきが刺激されると、
目の前の現実よりも、
自分が世界から
切り離されたときの気持ちとイメージが
クローズアップされてしまって、
実際に起っていること以上に
影響を受けてしまいます。

実際に起っていることは
さほど大きな出来事ではなくても、
内面では世界に失望し、
心を閉じて
世界から距離をとることで、
愛から切り離される痛みから
自分を守ろうとします。

そういうときに、
私たちは人をうらやんだり、
ねたんだり、
不信感をもったり、
敵意を感じたり
するんだと思います。

そういうホリーのテーマの
影の部分は、
愛から切り離されることが
いかに痛みを伴うかを
教えてくれますが、
僕らは大抵それを
真正面から感じないで済むように
生きているのかもしれません。

ホリーの光

ホリーのエッセンスは、
僕らのたましいにそのことを
思い出させてくれます。

どんな人の心のなかにも
決して誰も侵すことのできない、
神聖な領域があって、
そこを通して
人とつながることができると。

確かに傷は
痛むかもしれないけれども、
自ら痛みに向き合うことで、
他者の痛みに心を開いて
我がことのように感じ、
それぞれに大切にしてきた
心の領域を
互いに共有できると。

外の世界が
もっとも暗いこの季節に、
自分自身をここまで運んできた痛みと、
心の奥でずっと大切に守ってきた、
決して消えることのない光に、
労いを伝え、
これからもヨロシクと
言ってみるのはどうでしょう。


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