フラワーエッセンスを選ぶときの二つの視点-2
(前の記事からの続き)
子どもを学校に行かせるボタン
まだ「不登校」という言葉もなかったころから故河合隼雄先生は学校へ行かない子どもさんと会われていたわけですが、実際に「・・・・うちの息子を学校へ行かせるボタンはどこにありますか?」と訊かれたことがあるそうです。(*1)
これは極端な例で笑ってしまいそうな話にも聞こえますが、そう簡単に笑ってられる話ではないと思います。考えてみれば、僕らは普段からほとんど意識しないで大抵のことをそんなふうに考えてるんじゃないでしょうか。
原因は何か?
問題は何か?
原因は何なのか?
それを突き止めて取り除いたり、変えたりすることができれば、結果をコントロールできるというのが因果論的な考え方です。もちろん、それがとても有益な答えを導き出してくれることを僕らは何度となく経験済みです。
生きていることは関係をもつこと
けれど、ここで問題となるのは、こうした因果論的な見方や考え方の対象が「生きている」ときです。
生きているということは互いに関係をもっているということで、関係をもっているということは、こころがかかわっているということです。
因果論的な見方は通常そこを不問にすること、つまり「私」との関係を切り離して自分を原因と結果の外側において道筋を見つけることで成り立ちます。外側にいればたいしてこころを使わなくて済みます。
ですが、生きているということは本来絶対に外側にはいられなくて、自分も現象の内側にいるということです。内側にいるときにはこころを使わなくちゃいけない。
「私」を内側においた全体を見る目
僕らは因果論的な見方、考え方の価値を十分に知っているからこそ、普段からほとんど意識しないでそれを使うんだと思います。その価値を認めたうえでのことですが、自分のことを考えたり、人のことを考えたりするときに、あまりに因果論的な見方に偏るのは得策ではないと思います。
因果論的な眼と同時に、「私」を内側においた全体のコンステレーションを見る眼をもつことが大切なのではないかと思います。
(つづく)
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*1:河合隼雄 『こころの最終講義』 新潮社 2013, p.72
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