共感の底を流れる敬意と人の中の大切なもの

 

自分の理解の枠の中に収めようとしないことの難しさ

「相手を自分の理解の枠の中に収めようとしない」とか、

「自分の世界を出て、相手の世界に触れる」とか書いてきましたが、

これは、実際にやろうとすると相当に難しいことです。

 

僕らは普段の生活では、

がっつり自分の世界の中にいるし、

人の話も自分の理解の枠の中で聞きます。

 

たいていは相手が話しているときに、

すでに次に言うことを考えていたりしますから、

自分の理解の枠に収めようとしないで耳を傾けることが

いかに普段の態度と違うかがわかります。

 

普段のあり方が悪いと言いたいのではありません。

そもそも人間は自分の理解の枠の中に収めることで

世界と折り合いをつけて、

安心したり、安定したりするものだと思うので

むしろ自然なことだと思います。

 

意識的に自分の世界を出たいとき

けれども、人を援助しようと思うときには、

意識的に自分の世界を出たいときがあります。

 

たとえば、同じような境遇を経験したからといって、

必ずしもその人の気持がわかるわけではありません。

それどころか、同じような境遇を経験したからこそ、

相手の理解の枠と自分の理解の枠は同じものと思い込んで、

相手を傷つけてしまうことすらあります。

 

隣り合わせの危険

僕らは人の役に立ちたいと思えば思うほど、

なんとか悩みの解決に力を貸したいと思うし、

助けになりたいと思えば思うほど、

問題解決を手助けしたいと思います。

 

もしも自分の世界を出ることが難しければ、

もしも自分が重ねて見ている思い入れや思い込みの

イメージに無意識だとしたら、

たとえ相手の世界や物語からずれていたとしても、

相手を「善意で」

自分の思い描く癒やしの理想の枠の中に

収めようとする危険と

つねに背中合わせだということを忘れないでいたいと思います。

 

たましいが本当に大切にしているもの

自分の世界を出て、

相手の世界に触れさせてもらうことができたとき、

僕らは「あっ!」と思います。

植物の中の自然の不思議に出会ったときと同じように。

 

それまで自分の思い描いていた相手のイメージが崩れて

その人のたましいが本当に大切にしているものに

触れさせてもらったような瞬間。

 

その人が自分とは違う物語を

ここまで生きてこられたのは、

この大切なものがあったからなんだと

身にしみて感じられる瞬間。

 

そのようなときに

僕らは深い敬意を感じるのかもしれません。

そして、その大切なものがさらに自由に芽吹いていく

みずみずしい力を確かに感じるのかもしれません。

 

ラーチの若葉

ラーチの若葉

 

 

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