「いばら姫」の物語と日々私たちの心の中で起こること(3)

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「いばら姫」の物語と日々私たちの心の中で起こること(1)

「いばら姫」の物語と日々私たちの心の中で起こること(2)

(2)と(3)の間にいろいろ入ってしまいましたが、「いばら姫」の続きです(^_^)

十五歳になった日に「つむに刺される」という仙女の予言通りの出来事によって百年の眠りにつくことになった「いばら姫」を、河合隼雄氏は女性の思春期の発達と関連付けて、「案外すべての正常な女性の心理的発達の過程を描いているのかもしれぬと思われる。十五歳になったとき、すべての女性は一度死ぬと考えてもおかしくはあるまい」と述べています。(河合隼雄 「昔話の深層」 1994 162p)それは少女から結婚の可能な乙女への変身のための死と再生の内的な物語です。

ご興味のある方はぜひ直接著書を読んでいただくとして、僕は別の内的な物語の可能性を考えてみたいと思います。一度死んで生まれ変わるという主題を、たましいと自我の関係から考えてみると、私たちの内的な物語とどんなふうに重なるかということを考えてみましょう。

 

私たちは様々な環境に生まれてくるわけですが、その環境は自我の力で選んだり変えたりすることができませんから、持って生まれた魂の個性を生まれてきた環境でのびのびと発揮できるかといえば、そうではない場合が多いのではないでしょうか。

この世界にやってきたときに私たちの胸を満たしていた、たましいの希望や望みは、生まれてきた環境が期待し要求する役割や、容易に越えることの難しい困難に出会って、思春期を迎えるころに社会で一応大人として機能するために、たましいの希望や望みをそのままもっていることの痛みや苦しみを経験すると思うのです。

たましいの希望や望みを実現するにはまだ未熟な私たちは、なんとか携えてきた宝物が粉々にならないように砂の中に埋めて守るのが精いっぱいなのかもしれません。そうやってなんとか乗り越えた私たちは、今度は砂の中に自分の魂の大切なものを埋めてあるんだとなかなか思い出すことが難しくなります。守るためには深く埋める必要がありますし、思い出せば同時に痛みや落胆も感じるでしょうから、できるだけ深く埋めておく必要があります。

「いばら姫」の百年の眠りは、砂に埋められた私たちのたましいの希望や望みとしても、捉えてみることができるのではないかと思います。たましいの希望や望みを実現するためには自我の強さが必要です。歩いてきた道がどんなに曲がりくねっていても、その道が必ず私たちに必要な強さを与えてくれます。その道が曲がりくねっていて間違っていたのではないかと思えたとしても、それは間違っていたからではなく、砂の中に深く埋めたたましいの希望や望みの種子に芽吹く力を与えてくれる季節なのだと思うのです。

時が満ちるのは、曲がりくねった道を、欠けている何かを補おうとする自我の戦いの視点からよりも、たましいの希望や望みを生きるのに必要な強さと知恵を与えてくれた季節なのだと知ることができたとき、いばらはひとりでに左右にわかれ、傷を負うことなくいばら姫のところにたどり着けるのではないでしょうか。

王子さまのキスでいばら姫が目覚めたとき、初対面のはずなのに、「しんからなつかしそうに王子さまを見つめた」り、「あなたでしたの?王子さま、ずいぶんお待ちしましたわ」と声をかけたりした理由を、たましいと自我の再開として捉えてみることができると思います。

エドワード・バッチ医師はその物語の道しるべとして、フラワーレメディを世に送りだしてくれたのだと思います。

曲がりくねった道は、欠けている何かを補おうとする戦いというよりも、たましいの希望や望みを生きるのに必要な強さと知恵を与えてくれる季節です。そして、私たちの中心は美しい花と響き合うことができる何かでできていて、そこから生きることができると、フラワーエッセンスは教えてくれます。

ワイルドローズ(2015/5/10)

ワイルドローズ(2015/5/10)

 

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